九州編(24):山田の凱旋門(11.9)

 港から二十分強で、凱旋門に到着しました。まずは解説板から一部を転記します。
 この凱旋門は明治三十七・八年の日露戦争に当時の山田村から従軍した人たちの無事な帰還を記念して明治三十九年(1906)三月に山田村兵事会が建設したものです。『山田村郷土誌』によれば、山田村からの従軍者は、陸軍八八名、海軍二五名、計一一三名であったと記してあります。
 石造りの凱旋門は、鹿児島が誇るアーチ式の石橋技術を応用したものであり、全国的にも大変珍しいものです。使われた石材は凝灰岩であり、言い伝えによると、上名(かんみょう)の池平から切り出したといいます。昔は各地で石垣用に使われていました。石工は細山田ケサグマという人だったそうです。
 …『鹿児島県史』によれば、「県は熊本・宮崎・沖縄三県と連合して鹿児島のいずろ通広場角に凱旋門を建設し、一月に竣工、三月十二日より十五日にかけて部隊の凱旋を迎えた」とあります。(いずろ通の凱旋門は現存せず。) 恐らく山田の凱旋門も三月十二日以前に完成し、山田村の従軍者たちは、実際にこの門をくぐり、凱旋祝いを受けたと想像されます。
日露戦争の終結後、全国各地で記念祝賀会や凱旋式が盛大に行われました。
 あらためてしげしげと見てみると、威風堂々とした石造凱旋門です。当時は各地でつくられたと思われますが、私の知っている限り、現存しているのはこちらと静岡県にある渋川の凱旋門のみです。往時の状況を知る上で貴重な戦争遺産ですね、末長く保存していただきたいものです。
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 なお先日読み終えた『日本の百年4 明治の栄光』(橋本文三編著 ちくま学芸文庫)には以下のような記述がありました。
 まず二ヵ年の征戦を終えてなつかしい故国に帰った兵士たちは、しばらくのあいだは、国民の大歓迎を受け分捕り品や手柄話に人びとを喜ばせた。「乃木さんの評判はその後ますますよく、東郷さんの人気は天に冲するの慨があった。」(生方敏郎『明治大正見聞史』)
 しかしただちに彼らを襲ったのは戦後の流行語となった「生活難」にほかならなかった。「新橋に万歳の声絶ゆる隙なく、凱旋門いたるところに毅々たり。三越呉服店前には、新たに帝国万歳の文字大書されて、資本家がいかに戦争中天の恵みを受けしかを語りつつあるも、いまや一面には失業者の数、日に増加して、その総数八十万の多きに達せんとしつつあり。国民はこれをいかに見るか。」(『光』三号、1906年12月20日)
 帰還兵士たちのなかでももっとも悲惨であったのは、傷病兵と下士官兵であった。下士官兵は軍隊を離れて戦後社会の「生存競争」を闘う素養をもたなかった。廃兵もまた同じ運命にあった。(p.295~6)
 アーチをくぐると、大国ロシアとの凄絶な戦争を戦い抜き故郷に凱旋した兵士たち、それを熱狂的に迎える村人たちの歓喜の声が聞こえてくるようです。しかしその後の人々を待っていたのは、生活苦と重税、そして混乱と空虚と弛緩。そして「国民を犠牲にした富国強兵」というこれまでの政策に疑問をもつ人びと、個人主義者や社会主義者たちの登場。近代日本の大きな曲がり角を沈黙の内に証言する遺産です。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-02-20 06:18 | 九州 | Comments(2)
Commented by mesato52 at 2014-06-25 17:29
生還者は何人だったのでしょう
第三軍に配属であれば相当少なかったでしょうね
乃木「名」将軍説もありますが、拙の立場は司馬説支持です、男子二人を失っていなかったら、切腹ものだと理解しています。
Commented by sabasaba13 at 2014-07-02 20:04
 こんばんは、mesato52さん。さきほど読み終えた『日清戦争』(大谷正 中公新書)の中に、“…「乃木希典は一日で旅順を攻め落とした」など根拠のない言説が存在する”という一文がありました。(p.259) 乃木伝説がなぜ生まれ、流布しているのか、興味深い問題ですね。
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