九州編(50):熊本(11.9)

 それではそろそろ熊本駅方面へと戻りましょう。現在の時刻は午後三時半、16:47熊本発の新幹線まであと一時間強です。よしっ、ここからは電動をスイッチオンにしてフルパワーで疾走することにしました。途中にあったのが熊本商業高校、おぉ、ここが左門豊作の出身校か…と思いきや、熊本農林高校という架空の学校でした。正門の近くに「校門一礼」という大きな立て看板がありましたが、何に向かって礼をするのだろう??? そして熊本大学医学部内にある山崎記念館へ、官立熊本医科大学初代学長の山崎正菫(まさただ)氏を顕彰するために建てられた図書館です。設計は武田五一で竣工は1930(昭和5)年、重厚ながらもどこか軽やかな印象を与える好建築です。
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 次は小泉八雲旧居、1891(明治24)年に第五高等中学校の英語教師として赴任した際、最初の一年間を過ごした家です。なお日本に関する最初の著作である「知られざる日本の面影」はここで書かれたとか。なおこちらでいただいた『へるんさんの見た「熊本」』は、八雲関連の史跡まわりには必携の好パンフレット。それによると、この家を借りるにあたり、日本式の神棚を造ってもらい、毎朝柏手をうって礼拝したそうです。またキリスト教の嫌いなハーンは、西隣の宣教師コールを門前払いにしたといいます。
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 途中にあった警察署に、またもや「めざそうカギかけ日本一」という標語が掲げられていました。熊本では自転車泥棒がよほど多いのでしょうか。その先の花畑公園には「歩兵第二十三連隊址」という碑がありました。さきほどのパンフレットには、熊本に到着したハーンの第一印象は、「やや、がっくりさせられる。小屋や兵営、そればかりか、でかい兵営の立ち並ぶ荒野と言うべきものだった」というものだったそうです。
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 揮毫は…皇道派の巨頭・荒木貞夫大将。ウィキペディアで調べてみると、1919年7月から21年3月まで連隊長を務めました。たまたま読んでいる『昭和史発掘 第6巻』(松本清張 文春文庫)に次のような記述があったので引用しておきます。
 皇道派の巨頭たち、真崎、荒木、柳川、小畑、山下といった将官らと青年将校との間には、「革新」思想では通じあうかのようにみえても、実際には断絶していた。青年将校運動は青年将校自体による独自なものである。同様にかれらと、村上、石原、満井、牟田口らの佐官級とは何のつながりもない。これらの皇道派の将軍たちや佐官連中はその出世主義から青年将校運動を利用しただけである。彼らが「事の起るを待つかの如く」だったのは、風雲に乗じてライバルの統制派を追い落し、地位の優位を目論んでいたにすぎない。彼らは青年将校に、いいことずくめをいっていた。しかし、情勢が非となれば、いつでも青年将校を置き去りにしてゆく用意があった。利用者の常だが、この点に気がつかない磯部もまた若かったといえる。(p.284)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-03-26 06:17 | 九州 | Comments(0)
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