『怒りの葡萄』

 『怒りの葡萄』(スタインベック 新潮文庫)読了。日本、いや、地球規模で猖獗をきわめる貧富の差の拡大。そして労働者の悲惨な状況と人間性の破壊。そこから生じる絶望、怒り、憎悪。テロリズムの温床の一つはここにあり、そして際限なき利潤と豊かさの追求が資源の枯渇や自然破壊を招いていると考えます。どうしたらよいのだろう、途方にくれてしまうのですが、地球の命運がかかっている問題です。泣き言をいっている場合ではありません。こういう時にアリアドネの糸になってくれるのが歴史や文学です。今以上に猛威をふるった19世紀~20世紀前半の自由放任資本主義とは何だったのか、現今の新自由主義とはどこが同じでどこか違うのか、そして何より当時の人びとはどう立ち向かったのか。小説をあげると、日本では小林多喜二、イギリスではチャールズ・ディケンズ、そしてアメリカでは…そう、ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」。迂闊にも未読でしたので、これを機に通読、一気呵成に読み終えてしまいました。
 世界恐慌による1930年代の経済不況によって、オクラホマ州の小作地から追い立てられ、カリフォルニアに楽園を夢み、流れて行く季節労務者ジョード一家を描いた長編小説です。一家の動きを描く章と、当時の社会を鳥瞰的にとらえたり作者の考えを述べたりする章が、交互に配されている構成となっています。まずは企業や銀行による野放図で容赦のない利潤追求の様子が克明に描かれます。機械化にともなう農民からの土地の取り上げ、低賃金による労働者の酷使、そして暴力をともなうストライキ潰し。
 あそこにゃ、あっしらのようなものが三十万人もいるってことだ―豚みてえに暮してるとさ。なぜって、カリフォルニアにあるものは、みんなもう誰かの所有になっちまっているからさ。何一つ残っちゃいねえだ。しかも、それをもってる人間ときたら、世界じゅうの人間を殺したってかわまねえから手放すまいとしてるような連中だ。(上p.401)
 そう、"世界中の人間を殺してもいいから、財産を手放さない"、まさしく資本主義の原則ですね。 自由の国アメリカ、しかしある人物が言っていたように、"払いができる範囲内だけ"の自由です。(上p.233~4) 土地を奪われたジョード一家は、おんぼろトラックに全財産を積み込み、苦心の末カリフォルニアにたどり着きます。しかしそこで彼らを待っていたのは、農園での過酷な労働でした。こうした状況に対して、労働者たちのストライキや抗議が各地で散発的に起こりますが、企業家や資産者は警察や自警団(彼らも貧しい労働者!)を駆使して弾圧します。主人公のトム・ジョードは思い悩んだすえ、家族と離れ、こうした戦いに加わることを決意。それを母親に打ち明けた時の彼の言葉です。
 トムは、あいまいに笑い声をあげた。「そうだな、ケーシーが言ったように、人間、自分だけの霊なんてものはもっちゃいねえだ、ただ大きな霊の一部分をもっているだけなのかもしれねえ―そうとすりゃ―」
「そうとすりゃ、何だい、トム?」
「そうとすりゃ、何でもねえじゃねえか。つまり、おれは暗闇のどこにでもいるってことになるだもの。どこにでも―おっ母が見さえすりゃ、どこにでもいるだ。パンを食わせろと騒ぎを起せば、どこであろうと、その騒ぎのなかにいるだ。警官が、おれたちの仲間をなぐってりゃ、そこにもおれはいるだよ。ケーシーが知ったら、何ていうかわからねえだが、仲間が怒って大声を出しゃ、そこにもおれはいるだろうて―お腹のすいた子供たちが、食事の用意ができたというんで、声をあげて笑ってれば、そこにもおれはいるだ。それに、おれたちの仲間が、自分の仲間が、自分の手で育てたものを食べ、自分の手で建てた家に住むようになれば、そのときにも―うん、そこにもおれはいるだろうよ。…」 (下p.364)
 残された家族を必死で守ろうとする母親。しかし彼女は、"やつらが、あたしたちを根絶やしにできるもんかね。だって、あたしたちは人民だもの―生きつづけるんだもの"(下p.88~9)と語るように、トムとは違った意味で強い人間です。そのジョード一家を襲う大洪水、かろうじて逃げ延びた彼ら、そして息を呑むようなエンディングをむかえます。
 拙い要約でしたが、この小説がはなつ魅力の一端でも伝われば幸甚です。そして同様の状況に巻き込まれている私たちの戦い方に多くのヒントを与えてくれるのも、この小説の得がたいところ。登場人物たちの言葉に耳を傾けましょう。
「ようく考えてみなくちゃなんねえだ」と小作人はいう。「みんな考えてみなくちゃなんねえだ。なんとかこれをやめさせる方法があるはずだ。これは雷や地震じゃねえだからな。人間のつくった悪いものがあるとすりゃ、そいつは変えることができるはずだ」 (上p.72~3)

 母親は咳ばらいした。「大丈夫かどうかって問題じゃないよ。やるつもりがあるかどうかの問題だよ」 彼女はきっぱりと言った。(上p.201)

 だけど、おまえさんは何も知りたくはねえのさ。おれは、おまえさんみたいな人間を、うんと知ってるだ。何もはっきり知りたがらねえで、ただ自分を眠らせようとして歌をうたってるだ-『おれたちはいったいどうなるんだろう』と言ってな」 (上p.248)

 ティモシーは言った。「わしらが団結するのがこわいのだよ、きっとな。…―なあ、それで、やつら恐ろしいだよ。わしらが自分で自分をおさめることができたら、ほかのこともやらかすかもしれねえと考えてるだ」 (下p.117~8)

「…おれは、いま気がついただよ。人間、一人ぼっちでは、何の役にもたたねえってことをな」 (下p.361)

「そうさ。おもしろ半分じゃねえ。監獄にいた男な、そいつが言っただよ。『とにかく誰でも自分のやれることをやっていくだ。そして』ってね。『ただ、いつも、ほんのすこしでもいいから前に踏み出すってのが大切なんだ。ときにゃ、いくらかあとずさりもするだ。だけど、けっして大きくは後退しねえ。それは証明できる』 そういうだ。『だから、すべてのことが、その方向に進むんだ。ということは、一見するとむだ足してるようなときでも、そうじゃなくて進んでることなんだ』」 (下p.293)

「…人の話だと、わたしたちみたいに追いだされた者が、十万人もいるんだそうだよ。もし、みんなが、いっせいに怒りだしたら、ねえ、トミー-やつらだって、こっちを誰一人追いつめたりしないにちがいないけど-」 (上p.150)

 カリフォルニアへ行こうが、どこへ行こうが、おれたちは、みんなが、ひとりひとり、傷ついた心の行列を指揮しながら、おれたちの恨みとともに行進する軍楽隊の隊長なんだ。そして、いつの日か-怒りの軍隊は、いっせいに同じ道を進軍するにちげえねえだ。みんがいっしょになって歩いて行けば、そこから恐ろしい力が生れるにちげえねえだ。(上p.172)

 そして、つねに彼らは、一人の指導者を恐れていた―三十万人―もし彼らが、一人の指導者の下で動きだしたら―それこそおしまいだ。飢え、虐げられた三十万人。もし彼らに自覚が生れたら、世界じゅうの毒ガスもライフル銃も、彼らを阻止することはできないだろう。そこで、土地の所有によって、人間以上にもなり人間以下にもなった大地主たちは、まっしぐらに破滅に向って進み、結局は自滅のほかはないあらゆる手段をとることになった。(上p.466~7)

 人々は網をもっと河岸へ馬鈴薯をすくいにくる。すると番人がそれをさえぎる。人々は山と捨てられたオレンジを拾いに、がたつく車でやってくる。しかし、それには石油がまかれている。人々は、じっとたたずんで、馬鈴薯が流れていくのを見まもる。穴のなかで殺される豚どもの叫びをきき、その穴に生石灰をかぶせられる音をきく。腐ってくずれていくオレンジの山を見まもる。そして人々の目には失望の色があり、飢えた人たちの目には湧きあがる怒りの色がある。人々の魂のなかには怒りの葡萄が実りはじめ、それがしだいに大きくなっていく―収穫のときを待ちつつ、それはしだいに大きくなっていく。(下p.219~220)
 知ろうとすること、よく考えること、団結すること、状況を変えられると信じあきらめないこと、そして何よりも本気で真剣に怒ること。"恐怖が怒りに変りうるうちは、けっして破局はこないものだ"(下p.393)と作者は語っていますが、タイトルを「怒りの葡萄」としたところに、スタインベックの真意がこめられているのではないでしょうか。さて、となると、現行のシステムから莫大な利益を享受している方々の手の内も見えてきます。このシステムを死守するためには、私たちに対してこの逆のことをすればいいわけです。情報を伝えない、知ろうという気を起こさせない、考えさせない、孤立させ互いにいがみあわせる、あきらめさせる。こうしてみると、現行システムにおけるより上位の席次を争わせる競争というのは、実に素晴らしい方法です。システムの存在が大前提となるので、それに対する疑問や考察などありえず、他人はすべて敵であり団結などしようもなく、おまけに敗北すれば自己責任。ブラーボ。そして怒りについては? それがシステムに向かわないよう、鉾先をそらせることでしょう。たとえば、古典的な手法では、中国・韓国・北朝鮮など外国(これは石原氏の得意技)、新手の手法では、文楽や刺青をした公務員など公費にからむ微力な存在(これは橋下氏の得意技)。
 さあ、私たちは"怒りの葡萄"を実らせ、収穫することができるでしょうか。
by sabasaba13 | 2013-04-12 06:08 | | Comments(0)
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