足尾鉱毒事件編(2):足利学校(11.11)

 駅前には孔子の言を記した道標がありました。さすがは足利学校のお膝下ですね。『論語』里仁第四、"子曰、里仁為美、択不処仁、焉得知" 「仁という道徳を、自分の行いの拠りどころとするのは、美しいことである。仁を自分の拠りどころとしないとすれば、どうして知者といえようか」という意味だそうです。熨斗をつけて企業や資産家に進呈したい言葉ですね。
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 さて足利学校に行くには、駅からすこし離れたところにある田中橋を渡らなければならないようです。土手にのぼり、渡良瀬川の滔々たる流れを見ながら十数分歩き、橋を渡りました。この橋の名は田中正造に由来するものなのでしょうか。今、インターネットで調べてみると、どうやら関係はないようです。そして今夜の宿泊地・佐野に移動するため、JR両毛線・足利駅の場所を確認。なかなかチャーミングな洋風木造駅舎ですが、1933(昭和8)年に竣工された戦前の物件です。
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 それでは足利学校へと向かいましょう。途中に「昌平町」というホーロー看板がありましたが、たしか孔子が生れた村の名前ですね。「足利尊氏公マラソン大会」が開かれるそうですが、足利氏本貫の地に由来する命名なのでしょう。
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 さてJR足利駅から十分ほど歩くと足利学校に到着。まずは足利市のホームページから、足利学校についての紹介を引用します。
 足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されています。足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実(のりざね)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してからです。足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年に幕をおろしましたが、廃校直後から有志による保存運動が展開されるなど、郷土のシンボル、心のよりどころとして足利学校の精神は市民の中に連綿として生き続け、平成2年の復原完成へとつながり、教育の原点、生涯学習の拠点として、新しい学びの心の灯をともしています。
 なお江戸前期に建てられた古い建物で、現存しているのは孔子廟・学校門・杏壇門。入園料を支払い、凛とした学校門をくぐって中へ。孔子廟や南庭園を拝見しながら、庫裡へとあがりました。
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 足利学校に関する展示を見学して方丈へ。広々とした畳敷きの部屋で、こちらが学習の場なのでしょう。「自由に挑戦してください 足利学校漢字試験」というコーナーがありましたが、立て札に「足利学校は自学自習なので納得したら卒業です」と記されていました。数値で人間に序列をつける風潮がまかりとおる中、一服の清涼剤のようなお言葉でした。またその近くには宥座の器が置かれていました。二本の鎖で傾いた状態につるされた金属製の器で、水を入れると水平となり、さらに入れるとひっくりかえってしまいます。入れ足りなくても、入れ過ぎてもだめ。人間も同じで腹八分目が大事、孔子が説いた"中庸"を教えるための道具だそうです。これは面白い。こうして見ると孔子の智慧に学ぶべき点は、まだまだ多いようです。世界経済が"中庸"をめざせば、人間を苦しめる多くの災厄を防ぐことができるのにね。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-15 06:18 | 関東 | Comments(0)
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