足尾鉱毒事件編(6):佐野(11.11)

 「鐡館」という鋳物を販売しているお店は、かつて佐野鋳造所として鋳物工場を営んでいたそうです。ちょっと失礼して裏庭に入ると、明治時代に建てられたレンガ造りのキューポラを見ることができました。
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 佐野は鋳物の名産地なのですね。なんでも、平将門の乱を鎮め、唐沢城(現在唐沢山県立公園)の初代城主となった藤原秀郷が、京から五名のすぐれた鋳物師を連れて来て、軍器等の鋳造にあたらせたのが天明鋳物の始まりといわれているそうです。平安から鎌倉時代にかけて天明鋳物師の数は年々増えて、さらに室町時代に入って佐野は鋳物の街として全盛を極めます。特に茶の湯釜は九州の芦屋の釜とともに全国の茶人に愛好され、「西の芦屋に東の天明」といわれたそうです。江戸時代、佐野には100件余りの鋳物屋と300人を超す鋳物師がいて多くの梵鐘が造り、京都方広寺の有名な鐘も彼らの手によるものだとか。明治以降は、近代産業の発展と機械化による鋳造法の変革により衰退していきますが、今でも天明鋳物の技術と伝統を受け継ぎ、美術工芸品の製作に専念している鋳物師も少数ながらおられるそうです。なおこちらには「僕は急に?む凶暴なお父さん犬です。くましい」という貼り紙があり、その近くにつながれていた白い犬(「くましい」という名?)に嫌というほど吼えられました。
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 カトリック佐野教会は1950(昭和25)年竣工、正統的な教会建築ですが、正面の大きな丸窓が印象的。江戸街道沿いにある小島邸は切妻屋根とマンサール屋根を組み合わせたうえに、随所に華麗な装飾がほどこされた逸品。
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 高級婦人服「シャルマン」は四連アーチ窓が青いカバーで隠されているのが惜しい。太田家住宅は江戸末期の商家建築で、重厚な黒漆喰と繊細な格子窓がいい味をだしています。
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 そして惣宗寺、いわゆる佐野厄除け大師へ。さあここからがいよいよ足尾鉱毒事件と田中正造に関する史跡めぐりです。前掲の「田中正造と足尾鉱毒事件を歩く」(布川了 随想舎)を先達とし、道に迷わぬよう当該地をMapionで調べて付近の地図を印刷して持参しました。後は、♪足も折れよとこぎぬく♪決意です。さて、ここ惣宗寺は、田中正造が自由民権運動を始めた頃に足場にしていたお寺さん、そして1913(大正2)年10月12日に彼の本葬・分骨式が行なわれたところです。山門に正対して、石を積んだ台座の上に「嗚呼慈侠 田中翁之墓」と刻まれた自然石が彼の墓。解説板があって、正造が自然石を酷愛していたことから、渡良瀬川流域産の石を墓石としたとありました。また近くにあるのは石川啄木の歌碑。明治天皇に対する正造の直訴に感動した盛岡中学三年の啄木がカンパ活動をするとともに、その思いを託した歌です。"夕川に葦は枯れたり 血にまどう民の叫びの など悲しきや"
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-19 06:15 | 関東 | Comments(0)
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