足尾鉱毒事件編(8):田中正造生家(11.11)

 ふたたび自転車にまたがり十分ほどペダルをこぐと堀米地蔵堂跡に到着です。領主の六角家に対して村民らとともに政治的要求を掲げ江戸の獄に入れられた正造は、1869(明治2)年に釈放されると領内追放となり、隣接したここ堀米(井伊家領)の地蔵堂で手習い師匠をはじめました。「居ること百有余日、門人漸く三十人に達して、師弟の間いつも和気あいあいたり」(「田中正造昔話」より) 榎の大木がその頃を偲ばせる縁でしょうか、他には小さな地蔵堂がありました。なお、1906(明治39)年9月10日、木下尚江にせがまれて、石川三四郎(他に正造を尾行する巡査)と生家に向かう途中、ここで人力車を止めさせ、この榎を見上げてこう独語したそうです。「あの時や、子供の手ほどだっただが…」
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 地蔵堂跡から数分で、田中正造生家です。道路に面して建っているのは両親のために建てた二階建ての隠居所、ここに老父・義母と妻カツが雑貨などの小商いをしながら暮らしていたそうです。こちらでは足尾鉱山の鉱毒が展示されていましたが、私も目の当たりにするのははじめてです。また「見学記念品 有料」と銘打って(要するにお土産)、鋳物製の小さな立像と、川俣事件で負傷した山崎銈次郎宛書簡に同封されていた「愛」という字を彫ったペーパー・ウェイトが販売されていました。
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 中庭をはさんで奥にあるのが、彼が生まれ育った母屋です。茅葺屋根が銅板葺屋根に変えられているのがなんとも残念。彼が鉱毒問題のために東奔西走している間、父の治療のため医者に住んでもらい村人の診療所としても利用していたとのことです。内部は土間と板敷きで、正造の遺品である籐椅子(「明治13年1月吉日 田中正造」という自筆文字あり)や先述の「愛」という掛け軸(複製)が展示されていました。なお土蔵・便所も当時のものだそうです。
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 中庭の庭木は樹齢を全うして若木と交代したそうですが、唯一百日紅だけが長寿を保ち往時のものだそうです。なお気になったのが、近くにあった「県道拡幅絶対反対 田中正造邸宅をもとの位置にもどせ 国民的文化財を道路の犠牲にするな 田中正造の生家を守る市民の会・反対地権者の会」という看板です。前掲書では、県道拡幅事業が進み、邸宅移動に迫られると、小中農教倶楽部(正造の遺志により結成された管理団体)役員・市県教育委員会は、市民はじめ各地からの反対に耳を覆い、倶楽部総会の意向にさからって、邸宅の変形異動・ハリボテ的修理をあえて強行したと指摘しています。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-21 06:00 | 関東 | Comments(0)
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