足尾鉱毒事件編(10):雲竜寺(11.11)

 次にめざすは雲竜寺、ふたたび国道50号線(佐野バイパス)に戻って東行すると、途中に「わが国唯一の熊胆専門店」という看板がありました。そして県道7号線(佐野環状線)を南下すること約35分、渡良瀬川にかかる渡良瀬大橋の手前にありました。
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 1896(明治29)年、田中正造は栃木群馬両県鉱毒事務所をこの寺に設け、以来、足尾銅山鉱業停止請願事務所として、栃木・群馬・埼玉・茨城の四県鉱毒被害民の闘争本部になりました。雲竜寺の鐘が響くと、続々と集まった農民たちは鉱毒悲歌を高唱しながら、東京へ大押出しを繰り返します。1900(明治33)年2月12日の夜、館林警察は第四回大挙請願にむけて集まる被害民を解散させようと雲竜寺に押し入りましたが、逆に追い出され、夜明けとともに意気揚がる被害民二千余人は東京へと向かいますが、川俣で弾圧され68名が投獄されます。世に言う川俣事件ですね。その後、鉱毒問題が治水問題にすりかえられ、正造が谷中村に入るようになると、雲竜寺事務所の機能は消滅していきます。1913(大正2)年8月、病み衰えた正造が谷中への道すがら、ここ雲竜寺に立ち寄り、そして近くの庭田清四郎家に倒れ込み絶命しました。分骨はこの寺にも納められ墓がつくられますが、現在は宝塔型の墓石となっています。その近くにある救現堂という小さなお堂は、彼の七回忌にあたって台宿町琴平神社社殿を移築したもの。名の由来は、彼が病床で「現在を救え、ありのままを救え」と絶叫したことにちなみます。中には正造の木造と、鉱毒事件に活躍した人々の名を連ねた大位牌が祀られているとのこと。なお右の縁に置かれている小舟は、川俣事件の際に使われていた川舟だと聞いたことがあります。
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 境内には、田中正造に関連する碑がいくつかありました。「田中正造翁終焉之地」「足尾鉱毒事件被告之碑」という石碑、「毒流すわるさ止めずバ我やまず渡良瀬利根に血を流すとも」という彼の歌を刻んだ歌碑。また愛らしいお地蔵さまには、「足尾銅山の鉱毒による非命の死者を慰霊する地蔵尊です 鹿瀬の工場の排水による新潟水俣病患者の阿賀地蔵を送る会から寄贈されました 鉱毒非命の死者慰霊お地蔵さんの会」と刻まれていました。そう、足尾以後を生きた日本人は、結局、企業の横暴と官僚の癒着を未然に食い止めることができなかったのですね。四大公害をはじめとするさまざまな公害、そして福島の原発事故。あらためて正造や農民たちが掲げた炬火を受け継がなければと思います。もう一つの石碑には鮭が刻まれ、「足尾に緑を わたらせに清流を 田中正造翁70回忌を期して放流を始め、75回忌の年1985・11・17回帰サケを墓前に供える わたらせ川にサケを放す会」と記されていました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-23 06:16 | 関東 | Comments(0)
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