足尾鉱毒事件編(12):川俣(11.11)

 そして渡良瀬川を渡って県道7号線をさらに南下、川俣をめざします。時刻は十二時半、そろそろお腹がすいてきたので、道路沿いにあった「ラーメン亭」に立ち寄りました。まあまあ美味しい醤油味のラーメンをたいらげ、トイレに行くと…和服を着た朴訥そうな男性を描いた「福の神 仙台四郎」という色紙が飾ってありました。仙台四郎? 今、インターネットで調べてみると、ウィキペディアに載っていました。「江戸時代末から明治時代にかけて宮城県仙台市に実在した人物。本名は芳賀四郎。知的障害でほとんど話すことができなかったが、四郎が訪れる店は繁盛するとして存命中から各地でもてなされた。没後、商売繁盛の福の神としてその写真が飾られるようになった」 へえー、知らなかったなあ、一種の流行り神なのでしょう。
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 さて腹もくちたし、元気よくペダルを踏んで県道7号線をさらに南下。館林のあたりで可愛い狸をかたどった仮設ガードレールを発見。「ガードレール・アニマル」と勝手に名づけていますが、これまでにもいくつか見かけています。もうすこしたまったら発表しますので乞うご期待。茂林寺のあたりで西へと進路を変え、東武伊勢崎線を越えて国道122号線にたどりつきました。そしてさらにさらに南下、利根川の手前あたりに「川俣事件」の記念碑があるはずです。持参した地図を頼りに裏道のあたりを右往左往東奔西走していると…ありました。
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 庭田清四郎宅から、昼食時間を入れて約一時間十分かかりました。横長の大きな黒い石に「川俣事件記念碑」と刻んであります。後学のため、碑文を転記しておきましょう。
川俣事件は足尾鉱毒問題の中で最も大きな事件である
明治の中頃 渡良瀬川の上流足尾銅山から流出する鉱毒によって中下流域は農作物や魚類に甚大な被害を受けた 生活を脅かされた農民たちは 銅山の鉱業停止や補償を求めて再度にわたり大挙上京請願(押出し)を決行したがその成果は少なかった
一八九八(明治三十一)年九月大暴風雨による洪水は銅山の沈澱池が決壊し渡良瀬川流域の田畑は深刻な被害をうけた 耐えかねた被害民は足尾銅山の鉱業停止を求めて第三回東京押出しを決行した
その数一万余人 薄着姿の老人も見られたという
時の栃木県選出代議士田中正造は この報に接し 急ぎ上京途中の一行に会い 多くの犠牲者を出さないために総代を残して帰村するよう説得した その演説は 被害民を動かし 警備の憲兵・警察官にも深い感銘を与えたという
この後田中正造は足尾鉱毒問題解決に献身し 議会に於いても 再三再四政府を追及したが 政府の答弁は終始曖昧に終わった
一九〇〇(明治三十三)年二月十三日足尾銅山の鉱業に関わる諸問題を解決するために 被害民たちは決死の覚悟で第四回目の東京押出しを決行した
前夜から邑楽郡渡瀬村(現館林市)の雲龍寺に集結した二千五百余名の被害民は翌朝九時頃大挙上京請願のために同寺を出発 途中警察官と小競り合いを演じながら正午頃佐貫村(現明和町)に到着 ここで馬舟各一隻を積んだ二台の大八車を先頭に利根川に向かったが その手前同村川俣地内の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで待ちうけた三百余名の警官隊に阻まれ 多くの犠牲者を出して四散した これが川俣事件である
この事件で負傷し 現場及び付近で捕縛された被害民十五名は 近くの真如院(お寺)に連行された(翌日以降の捜査で総数百余名が逮捕され うち五十一名が凶徒聚衆罪等で起訴された)
この事態を重くみた佐貫村の塩谷村長をはじめ郡・村会議員区長らの有志は 村医を呼び負傷者に応急手当を施し 炊き出しを行い にぎり飯を差し入れるなど被害民の救恤につとめた この手厚い扱いに被害民関係者は深く感銘し これを後世に伝えている
この後 政府の措置に失望した田中正造は 衆議院議員を辞職し 天皇に鉱毒問題を直訴 以後谷中村遊水池化反対闘争へと戦いを続ける
この地で川俣事件が発生してから百年が経過し いま足尾鉱毒事件は公害の原点として新たな脚光を浴び 環境問題にも強く訴え続けている
この史実を永遠に風化させないために ここに川俣事件発生百年にあたり 記念碑を建立し 後世に伝えるものである

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-25 06:17 | 関東 | Comments(0)
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