足尾鉱毒事件編(13):川俣(11.11)

 その近くには「川俣事件衝突の地」という、対になった石碑がありました。なお気になるのは、田中正造のことですが、ウィキペディアによると、彼はこの事件を知らずに東京の国会で鉱毒問題に関する質問を行っていたそうです。これは被害民たちが正造の国会質問日をあえて選んで押出しを決行したためという指摘がありました。彼に迷惑をかけまいという配慮だったのかもしれませんね。なお彼が有名な「亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問」、いわゆる「亡国演説」を衆議院で行なったのは川俣事件の直後、1900(明治33)年2月17日のことです。「民を殺すは國家を殺すなり。法を蔑にするは國家を蔑にするなり。皆自ら國を毀つなり。財用を濫り民を殺し法を亂して而して亡びざる國なし。之を奈何。右質問に及候也」と趣意書にあるように、真っ向から国家権力を糾弾したものですが、山県有朋首相はこれを「質問の趣旨その要領を得ず、よって答弁せず」と無視します。
 さて、前掲書によると、五段に布陣して待ちかまえていた二百の警官と十余名の憲兵たちは、突入した被害民たちに対して「土百姓」とののしり、サーベルの鉄さや(抜けないように麻ひもで結んでいたとか)で、突く、殴るの暴行を加えながら、目立つ者を二~三人がかりで縛り上げたそうです。また1900年2月の正造の日記には「毒ニ死スルモノ千六十四人、毒シタルモノモ霊アリ。中ニハ毒ニ殺サレタルヲシラズアランケレドモ、苟も霊あり。此請願ノ貫徹ヲ願ハザルナシ。内務ヘノ電報ハ十五人ヅツ。此ウラミヲ晴サデ置クベキカ。七度生れ代りても」とあるそうです。そして事件後の3月9日には次のような檄文を書いています。「入監者ハ皆神ナリ、之ヲ助クルモノハ仏ナリ。人ヲ殺害スルモノハ悪魔ナリ。天帝之ヲ照覧セラル。…毒ヲ以テ良民ヲ殺スモノハ誰ナルゾ。古河市兵衛ト外一物ナリ」 彼の裂帛の気合、瞋恚の炎がびしびしと伝わってきます。それにつけても、国家権力や企業による犯罪的行為に対して本気で怒ることが、私たちにはきわめて少ないように思えます。正確に言うと、被害者の怒りに対して無関心であるということです。例えば、『写真集 水俣 MINAMATA』(三一書房)の中で、W.ユージン.スミスはこう言っています。「患者たちの憤怒は、患者たちだけでなく国中が感じるべきものだった」(p.85) そして個別分散的に、そうした犯罪的行為が隠蔽され忘却されていってします。日本の近現代史はその繰り返しではなかったでしょうか。官僚・政治家・財界人諸氏は、そうした憤怒を共有し抗おうとしない私たちをなめきって、平然と"悪魔"的所行をくりかえすのだと思います。彼らの腰を引かせるような怒りをいかにして共有し叩きつけるか。これも田中正造から学ぶでき点の一つだと思います。箴言を蒐集している個人的な詩華集『言葉の花綵』から、「怒り」に関するものを三つ紹介しましょう。
 希望には二人の娘がいる。"怒り"と"勇気"だ。(聖アウグスティヌス)

 私たちは、自分が生きるということに、しあわせに生きることに、もっと貪欲になるべきではないか。生きる権利というものに、もっともっと目ざめなければいけないのではないか。生きる権利をがむしゃらに求めるところからすべてはじまる。そして、生きる権利に挑戦し、迫りつつあるもの-公害はその最大の敵の一つだ-に対して、私たちは腹の底から恐怖と怒りを感じて、自分自身がなにをすべきか、人間としてどう生きるべきかを、自分に問いかけてみる。そのとき自分の心のなかに勃然として何かが生まれてくる-。(田尻宗昭)

 この世界にあっても、許し難いことは存在する。それを見つけるためには、目をよく見開き、探さなければならない。若者よ、探しなさい。そうすれば、きっと見つかる。いちばんよくないのは、無関心だ。「どうせ自分には何もできない。自分の手には負えない」という態度だ。そのような姿勢でいたら、人間を人間たらしめている大切なものを失う。その一つが怒りであり、怒りの対象に自ら挑む意志である。(ステファン・エセル)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-26 06:20 | 関東 | Comments(0)
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