足尾鉱毒事件編(14):旧谷中村(11.11)

 川俣から進路を東へ変え、一時間ほどペダルをこぐと正造の墓がある北川辺霊場に到着です。時の政府は、渡良瀬川の洪水を防ぐ名目で谷中・利島・川辺の三村を潰し、遊水池化することで問題の解決を図ろうとしたため、正造は谷中村に仮住まいを作り、地域住民と共に不休の活動を続けたため利島・川辺は遊水池となることを避けることができました。この両村が、報恩のために彼の分骨を祀ったのがこちらの墓所です。北川辺西小学校に接して、覆屋の中の小さな墓石、そして友人・高田早苗揮毫の「田中正造翁頌徳碑」がありました。なお隣に「忠魂碑」「招魂碑」があるのには少々違和感を覚えますが。
c0051620_655771.jpg

 二十分ほど走ると、最後の大押出しの集結場所となった養性(ようしょう)寺です。1902(明治35)年、利島・川辺・海老瀬・谷中の村民を主とした約二千もの農民が大挙請願を決行しますが、栗橋のあたりで待ちかまえていた五百余の警官隊に食い止められ、それをくぐりぬけた五百余人が農商務省の玄関に坐り込みます。3月6日には平田東助農商務相に面会、しかし内海忠勝内務相は会おうともせず、結局同日に帰村しました。なおこれが最後の大押出しであったそうです。
c0051620_6561667.jpg

 そして谷中湖・渡良瀬遊水地に到着、川俣から二時間ほどかかりました。大きな駐車場や売店、楽しそうな家族連れなど、今ではすっかりレジャー施設に変貌してしまいましたが、ハート型をした人造湖のくぼみのあたりに「史跡保存ゾーン」として谷中村遺跡が保存されています。1970(昭和45)年、谷中湖造成の際に旧谷中村はほぼ水没、せめて共同墓地と延命院跡のある丘を守ろうと、水野勝作・大野明之進など共同墓地ゆかりの人々が、墓石を撤去しようとするブルドーザーを身を挺して止めさせました。これを機に岩崎正三郎を会長とする旧谷中村の遺跡を守る会が、建設省利根川上流工事事務所と交渉を重ね、署名運動を行ない、世論の後押しもあって、設計を変更させたそうです。そのためからくも遺跡は守られ、谷中湖はハート型にくぼむことになったのですね。守る会によってつくられた表示に従って葦原の奥へと進むと、遺跡に着きました。その経過ですが、川俣事件の翌年1901(明治34)年、なんら問題解決に動こうとしない政府や政党に絶望した正造は、明治天皇への直訴を決行しました。この事件は社会に衝撃を与え、被害民を支持する世論が高まると、翌02年政府は、鉱毒問題の根本解決を避けて谷中村に貯水池を設けて渡良瀬川の治水を図るという計画をたてました。洪水を防げば鉱毒による被害も防げるという論理ですね。04年、栃木県議会は堤防修築という名のもとに谷中村買収案を強行採決します。正造は水没の危機にさらされた谷中村に居を移し、村人とともに谷中村強制買収に反対します。しかし廃村実施と村民追い出しのため、政府の意により栃木県は、谷中残留16戸の強制破壊(1907)、さらに防水堤防の決壊水攻めなど、過酷な措置を次々と実行していきます。しかし正造および村人はその後もここに留まり、眼を覆うような辛酸をなめながらも仮小屋で雨風をしのぎ、頑強な抵抗を続けます。村民の頼りの綱であった田中正造は老体をひきずり、延々と続く訴訟の費用工面、鉱毒洪水現地調査レポート作成作業に尽力しますが、病魔(胃癌)のために前述の庭田清四郎宅で行き倒れ、1913(大正)年9月4日に終焉を迎えました。正造の意志をつぐ残留農民は以後も抵抗をつづけますが、やがてこの地を去って行くことになります。彼は「谷中村復活」によって日本を亡国の淵から救済することを唱えて最後まで抵抗したとのことです。谷中村を見殺しにすれば、国家権力は同じような惨事をつぎつぎと現出させていくことを看破していたのでしょう。「一人の命を救うことは、全世界を救うことである」というユダヤの格言を思い出します。

 本日の二枚です。
c0051620_6555690.jpg

c0051620_657441.jpg

by sabasaba13 | 2013-04-27 06:57 | 関東 | Comments(0)
<< 足尾鉱毒事件編(15):旧谷中... 足尾鉱毒事件編(13):川俣(... >>