足尾鉱毒事件編(16):旧谷中村合同慰霊碑(11.11)

 なお「谷中村遺跡を守る会」が立てた看板に、「〈足尾・水俣・福島〉 -甦る田中正造の警告「デンキ開ケテ、世見暗夜となれり」- 福島第一原発事故の原因と原子力公害の脅威」と記された小さなポスターが貼ってありました。国学院大学教授・菅井益郎氏による講演会のお知らせです。内容を転記しておきましょう。
 今年3月11日に東日本大震災が発生し、福島原発一号機が水素爆発した。3月下旬、講師は現場から約30から50㌔離れた福島県飯館村の放射能汚染調査に出かけた。村長や村民と話し、村内を見学しているうちに「これは現代の谷中村ではないか。」と思いを強くしたと言う。足尾銅山鉱毒事件から120年、足尾銅山から鉱毒が流れ出して本県をはじめ群馬・埼玉県に大きな被害をもたらした。そして佐野市に於いても渡良瀬川周辺地で大きな鉱毒被害を出した。今回の福島原発一号機の事故と足尾銅山鉱毒事件は多くの類似点がある。「人々を難民化する文明とは何か。」 田中正造は足尾銅山鉱毒事件に対して鋭い文明批判をしている。この田中正造の警告をもとに2年後に迫った田中正造没後100年をどう迎えるのかを考え、その中で戦後、熊本県で発生した水俣病とともに現代社会の本質を探ってみたい。
 福島に谷中村の姿をだぶらせてしまうのは私だけではないことを知り、意を強くしました。そして県道9号線に戻りすこし北上すると、旧谷中村合同慰霊碑に到着です。
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 谷中村遺跡からここまで自転車で十五分ほどでした。正方形に設置されたコンクリート塀の内側に、びっしりと墓石や石仏が並んでいる、胸をしめつけられるような荒涼とした光景です。本来あるべき場所から切り離された墓石のなんと寂しげなことよ。私個人としては散骨でも風葬でもかまわないのですが、自分の生まれ育った故郷に葬られ、子々孫々を見つめ守り続けたいと願う気持ちは痛いほどよくわかります。前掲書によると、谷中村民が墳墓の地を追われた後、墓は数十年間葦原に没していました。しかし戦後社会が安定し、さらに公害問題が拡がり、田中正造の存在が甦ってくるなかで、谷中に寄せる思いが強くなり、遊水地内に点在する無縁墓地をぜひまとめてほしいという要望が藤岡町や建設省に出されました。その結果、1961(昭和46)年に、268基の石仏や墓石を集めてつくられたのがこの合同慰霊碑です。他方、墓石の移転は史跡破壊になるとして「旧谷中村遺跡を守る会」が結成され、墓地の残留、遺跡保存の運動も続いています。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-29 06:15 | 関東 | Comments(0)
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