足尾鉱毒事件編(18):田中霊祠(11.11)

 そして県道9号線を数分西に走ると、本日最後の訪問地、田中霊祠に着きました。田中正造の分骨を祀った唯一の神社で、旧谷中村高沙の嶋田熊吉邸内に奉じられていたものが、渡良瀬川改修によって1917(大正6)年にこの地に移されたとのこと。ここは正造が最後まで反対していた新渡良瀬川を掘削した土を棄てた場所で、往時はろくに草も生えない荒地だったそうですが、今では杉や欅がそびえる森閑とした環境となっていました。境内には「世をいとい そしりをいみて 何かせん 身をすてゝこそ たのしかりけれ」という正造の歌碑、そして頭山満揮毫の「義気堂々貫白虹」という碑があります。
c0051620_16212289.jpg

 頭山満か…後学のため岩波書店「日本史辞典」から引用しましょう。
 国家主義者・大アジア主義者。福岡県生れ。号は立雲。不平士族運動、民権運動に参加、1879年福岡に平岡浩太郎・箱田六輔らと向陽社を設立し、81年玄洋社と改称、87年頃から国権論に転じた。韓国併合や日露戦争など日本の帝国主義的アジア膨張への在野の協力者であると同時に孫文やインド民族運動の指導者ビハリ・ボースなどを積極的に援助。官職につかずに明治末まで軍や政界、官界、財界などに右翼の大物として影響力を行使し、その後は象徴的存在となった。
 最近では、イスラム研究の先駆者として注目されている興味深い人物です。田中正造と頭山満、生前に何か接点があったのか、あるいは彼の義挙に対する賛辞なのか、博雅の士の教えを乞う。
 というわけでこれにて終了。かなり無茶な行程でしたが恙無く完走することができました。現在の時刻は16:43、貸し自転車の返却時刻は午後七時なので何とか間に合うでしょう。薄暮の中、ひたすらペダルをこいで県道9号線を疾走、午後五時半に佐野に着くことができました。自転車を返す前にちょっと道草、ご当地B級グルメ「いもフライ」を食べることにしましょう。観光案内所でもらった「さの いもフライマップ」で当たりをつけた「飯島商店」に寄りました。昔懐かしい駄菓子屋の風情にあふれたお店に入り、いもフライを一本注文。"佐野市民にとっては、小さい頃から普通に買い食いしていたメジャーなおやつ"、一口大に切って蒸したジャガイモを串に刺し衣をつけ揚げ、濃厚ソースとともに食するシンプルな一品ですが、たいへん美味しうございました。
c0051620_16221169.jpg

 そして今日一日よくぞ中年太りの薄汚いおっさんを文句も言わずに乗せてくれたわが戦友を抱擁して写真におさめて返却。駅前にある交流プラザ「ぱるぽーと」のトイレに入ると、「自信のある人もない人も もうチョッと前へ」という掲示がありました。もちろん自信はないので、かなり前へ出て小用を済ませ、両毛線に乗り込み今夜の塒のある桐生へと向かいます。
c0051620_1622135.jpg

 三十分ほどで到着、予約しておいた駅前のホテルでチェック・インをして荷物を部屋に置き、夕食を食べにいきました。お目当ては、桐生市民のソウル・フード「ソースかつ丼」です。桐生駅から十五分ほど歩いて、はじめてソースかつ丼を出したという「志多美屋」に入店、クリスプでジューシーな逸品を満喫。ホテルに戻り一献傾けながら明日の旅程を確認して就寝しました。
c0051620_16225497.jpg


 本日の一枚です。
c0051620_1622537.jpg

by sabasaba13 | 2013-05-01 16:23 | 関東 | Comments(2)
Commented by 田中正造 at 2013-05-18 12:30 x

貴殿のブログをツイッター上で紹介させていただいております。以下は私のアカウントにいただいたつぶやきです。ご参考までに。

@regedry33: @e_kamajiro @syozou1841 榎本武揚、谷干城、そして勝海舟はオラたちの味方だべ by渡良瀬農民。しかも佐野厄除大師の田中正造の墓前際(法要)には頭山満まで来てたんだど(1940年頃)。こらあ思想や政治的立場の問題じゃねえ。人道と良心の問題だっぺ! #田中正造
Commented by sabasaba13 at 2013-05-21 16:19
 こんにちは、田中正造さん。コメントをありがとうございました。
<< 足尾鉱毒事件編(19):足尾(... 足尾鉱毒事件編(17):藤岡町... >>