足尾鉱毒事件編(21):足尾銅山(11.11)

 龍蔵寺のあたりからは、松木川(渡良瀬川)越しに廃墟となった足尾製錬所を一望することができます。
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 ここに製錬所が建設されたのは1884(明治17)年、その後改良と拡大を続け、東洋一の大銅山と称されるようになりました。当時の日本にとって、なぜ銅は必要だったのか。前掲書から引用しましょう。
 富国強兵・殖産興業をスローガンとした、明治政府の政策を追い風に、古河市兵衛は休山同様の足尾銅山を、東洋一と称される大銅山に発展させた。世界的にも銅需要がたかまっていたので、主要な輸出品として、外貨獲得に役立った。明治中期から大正前期までは、全生産量の80%前後が輸出されていた。
 「銅は、1890年に輸出総額の9.5%を占め、重要輸出品としての地位を確立した。そしてアメリカ・チリ・ドイツにつぐ世界有数の産銅国として、日本の銅は世界市場に直結しつつ、近代化のための鉱工業生産設備、兵器、機械類など、重工業製品輸入のための外貨獲得産業として、日本資本主義の成立と発展に不可欠な役割を担った」(『通史足尾鉱毒事件』) そのトップに足尾銅山があった。
 川には古い鉄橋がかかっていますが、これがドイツから輸入され1890(明治23)年に完成した古河橋。当時は、日本初の電気鉄道が敷設されていたそうです。日本で最も古い道路鉄橋の一つですが、現在は車両の通行できません。
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 その隣にかかる新古河橋を渡れば、本山です。解説板・前掲書・スーパーニッポニカ(小学館)によると、1884(明治17)年に有木坑(本山坑)が開発されると同時に、鉱業所・選鉱所・製錬所・医局などの施設が置かれ、その後火力発電所や学校が設けられたりして、名実ともに足尾銅山の中心となりました。そしてここを舞台に、1907(明治40)年2月、足尾大暴動が起こります。原因は、日露戦争の戦費を賄うための増税、インフレによる実質賃金の低下に加え、賃金査定の際に係員が賄賂を要求するなどの不公正な処遇に対する不満でした。暴動の直接のきっかけは、賃上げを要求して勢力を増しつつあった永岡鶴蔵、南助松らの大日本労働至誠会をつぶすために飯場頭が仕組んだ挑発によるもので、暴動は2月4日、通洞坑内見張所での採鉱夫と係員との衝突に始まり全山に波及しました。鉱業所長から現場係に至る職員が袋だたきにされ、事務所や社宅が打ち壊され、倉庫に火が放たれた。同7日、高崎聯隊から3個中隊が派遣され、銃剣の下で、360余人を逮捕してようやく鎮圧。この暴動を評して、幸徳秋水が「田中正造は尊敬すべき人物だが、二十年活動しても、古河に指一本触れ得なかった。足尾の労働者は、三日間であれほどのことをやった。支配階級を戦慄させた」という演説をしたのは有名ですね。足尾暴動の影響は大きく、同年4月に幌内炭坑、6月には別子銅山で暴動が起こったほか、各地で労働争議が頻発し、第一次世界大戦前における最高を記録しました。「日本の労働運動のメッカ」と呼ばれる所以です。1973(昭和48)年2月28日に足尾銅山が閉山となった時には、ここに138世帯477人が住んでいたそうですが、その年の8月にはついに無人となりました。タクシーからおりてすこし坂を登ると、草々に埋もれた家の土台が点々とありました。往時の賑わいも、戦いの鬨の声も、今では想像するしかありません。なおこちらには「佐藤信淵在住の地」という看板がありました。岩波日本史辞典によると、江戸後期の兵学家・経世家・農政家で、思想は平田国学に学んだ<産霊神(むすびのかみ)>を基礎におき、儒学や蘭学などを幅広く取入れ、殖産興業・航海通商・中央集権国家の必要を唱えましたが、観念的で非科学的な見解も少なくないとのこと。近代日本が推し進めた中央集権・富国強兵・海外侵略を主張した、予言者ともいうべき人物です。その彼が、鉱山学者の父に従って十五歳の頃に来山したそうです。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-05-07 06:14 | 関東 | Comments(0)
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