足尾鉱毒事件編(22):足尾銅山(11.11)

 そして再びタクシーに乗り込み、「赤銅の道」を走って銀山平へと向かいます。途中で、備前楯山を眺められるところで停めてもらい、写真を撮影。もともとは黒岩山といわれていましたが、1610年に農民2人が露頭の銅鉱を発見した功績をたたえて2人の生国である備前の名を取り、備前楯山と名付けられたそうです。(楯とは鉱脈の露頭のこと) ここが足尾銅山採鉱の主要地域ですね。
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 本山から十数分で銀山平に到着、ここには「中国人殉難烈士慰霊塔」があります。前掲書によると、1944(昭和19)年10月、257人の中国人が小滝に強制連行されてきました。17歳から64歳までの河北省・河南省出身者が多く、共産党軍や国民党軍の捕虜が過半数で、他は農民でした。体が衰弱しきっていたために栄養失調や胃腸障害で死ぬ者が続出し、109人に達したそうです。二人が脱走を試みますが捕えられて、北海道イトムカの水銀鉱山に送られ、そこで死亡しました。また他にも、朝鮮人労働者1500人、白人捕虜400人が銅山の労働で使われていました。日本が降伏する日の朝、青天白日旗が収容所の屋根にあがり、正午、天皇がそれを放送したとき、インターナショナルの歌声が小滝に響いたそうです。同年10月10日(双十節)には、帰国促進を要求する中国人たちは、事業所にデモを行ないました。足尾の労働者とは強い連帯を示し、「義勇軍行進曲」を教えたりしたとのこと。同年11月27日、遺骨の処遇に不満を抱きつつも帰国しました。この慰霊塔は、1973年(閉山の年)、中国人殉難者慰霊栃木県実行委員会によって建てられました。足尾鉱毒事件を語るときに、この歴史的事実は言及されないことが多いので銘記しておきましょう。なお近くにあった楓がみごとに紅葉していました。
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 銀山平から小滝に向かう途中で、「小滝坑跡」という解説板があったので車を停めてもらいました。本山坑・通洞坑とともに、備前楯山における採鉱の中心となった坑道です。その入口には坑内電車のために架けられた旧小滝が残されていました。
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 そして小滝に到着、小滝坑のための選鉱所・製錬所・坑夫飯場が設けられ、さらに病院や学校も建てられ、1916(大正5)年の最盛期には一万有余人の人口があったそうです。しかし経営の合理化が進められ、小滝坑は1954(昭和29)年に閉坑され、人々は去り廃墟となりました。今では苔むした石積みが残るのみ、そして「ここに小滝の里ありき」という石碑が佇んでいるだけでした。前掲書によると、田中正造は「ふるさとの事をおもいバかなしけれ むかしの姿たなきものとせバ」(1898.1.3)という歌をつくっているそうです。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-05-08 06:17 | 関東 | Comments(0)
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