『自由を耐え忍ぶ』

 『自由を耐え忍ぶ』(テッサ・モーリス-スズキ 岩波書店)読了。著者は日本近現代史を専攻する気鋭の歴史学者、私も「北朝鮮へのエクソダス」(朝日新聞出版)、「天皇とアメリカ」(集英社新書)、「辺境から眺める」(みすず書房)などを拝読いたしましたが、その斬新な問題関心と鋭い分析には頭が下がります。まずは岩波書店による紹介文を転記しましょう。
 9・11事件後、アフガニスタン戦争は「不朽の自由作戦」(Operation Enduring Freedom)と名づけられ発動された。アフガンで、イラクで、自由を付与するとの美名の下に、数多の民間人が殺され、傷ついた。彼ら彼女らにとっての「自由」とは頭上から降り注ぐ爆弾のように、耐え忍ぶ(enduring)ものなのだろうか? 軍産複合体が肥大化し、市場が国家と融合した。人々の生活のあらゆる局面に産業化・市場化が浸透し、自由までもが規律化された。戦争や強制収容所が民営化されていく。知的財産は企業によって囲い込まれ、平等に享受しうる情報や自由が収奪される。グローバリゼーションに関わる最新の文献を踏まえ、9・11事件後に世界各地で進行する事態をおさえながら、新たな社会運動へ向けて批判的想像力を羽ばたかせ、市場の社会的深化に抵抗するオールタナティブを探る。
 本書は、グローバリゼーションのもとで今進行している状況、企業にコントロールされた「モノを売る/買う自由」があらゆる局面において浸透し、われわれが耐え忍んでいる状況に焦点をあてています。その根柢にあるのは、ひたすら経済成長をめざすというヴィジョンだというのが著者の指摘です。"人間がより幸福な存在になるという西欧近代性が目指した変革のヴィジョンは、変化を求めない容赦なき成長の終わりない行進というヴィジョンに、取って換わられてしまった"(p.8) 著者はこうした状況の基礎を、ヨーロッパの植民地帝国の建設に求めています。たとえば、オランダ東インド会社の「まだ実現しない利潤のために資本を募る」という原理、いいかえると資本を調達するためには拡大=経済成長の保証が必要であるということ、これこそが企業市場経済を理解する鍵である。しかし拡大の限界をむかえると、企業はその解決策として、まず外部への拡大、より遠くの世界へ向けて新たな市場を開拓することになります。これがいわゆる植民地拡大=帝国主義の歴史ですね。もう一つは内部への拡大、著者が「市場の社会的深化」と呼ぶ過程です。私なりの理解で言えば、これまで国家のみが関わってきた領域(ex.戦争・刑務所…)や、公共性の高い領域(ex.健康・知的財産…)を企業市場経済が蚕食・併呑するという状況です。著者があげられている、きわめて身近な一例を紹介しましょう。
 知的財産権に関する世界規模での厳しい規制は、コンピュータソフトウェアやバイオテクノロジーなどの知的集約産業に投資する一部の人間の利益を過剰に保護し、安価な治療薬や安いコンピュータソフトの存在で恩恵を受ける圧倒的多数の人々の利益を無視するものである。この意味において、知的財産という制度は、一部の法律家や科学者たちだけに関係した、専門家でなければわからない事象ではない。これは現代の日常生活における最も重要な部分に直結する問題なのである。例えば、先進国で最も差し迫った社会問題の一つは医療保険制度の破綻ないしは危機であろう。これらの保険制度が疲弊した主な理由は、もちろん医療費の急激な高騰であり、その原因の一つは明らかに製薬会社が課す高額な特許料が薬価に転嫁されているからである。(p.96~7)
 そして、人間やその政治的行動を絶えず支配する永遠の法則を疑いなく信仰することを「原理主義」と定義するなら、市場競争こそが繁栄と幸福の唯一の道だと主張する企業市場経済もりっぱな「原理主義」であると指摘された上で、この企業市場経済原理主義に当然の如く抗う人びとも現われます。そして彼らは、偏狭で暴力的な宗教や同じく偏狭で暴力的な民族主義・ナショナリズムの再生といった別の原理主義の砦へと追い込まれてしまう。そこに大きな問題点があると述べられています。(p.162)
 政府および企業市場が強制するもう一つの原理主義として、著者があげられているのが「全体主義的個人主義(totalitarian individualism)」です。個々人は自らのことのみに関心を持つべきであり、従って、なにごとも社会に要求せず、国家に「迷惑」を及ぼすことを禁ずる、いわゆる「個人責任」の進化形です。(p.205) その狙いは、個々人の選択の背景にある政治的、社会的、経済的文脈にかかわる複合的な諸問題から目をそらせ、産業構造の変化、技術革新、教育政策の失敗といったいろいろな要因が、失業や貧困をもたらしているのではないかという問いを封じ込めるためです。それでは失業や貧困といった不公正に満ち満ちた社会に生き、それを「個人責任」に帰せられた人びとはどういう対応をするか。
 …多くの人々は、不公正で欠陥に満ちた社会に生きていることを自覚しているが、その社会を改革するための貢献の手段を見出せないでいる。何もすることができないまま不公正な社会を生きるには、その対応として次の二つの選択肢を採用する。一方は、世界を変えることのできない自分自身の無力さを嫌悪することであり、他方は、外部に標的を定めて感情を表出することである。そして不公正の原因が特定できない時、この怒りの破壊的な力は、壊しやすいものに向くことになる。すなわち弱者や少数者や異物が標的と定められる。デッカ・アイケンヘッドが報道した憎悪および日本でのイラクで拘束された人質に向けられた怒りは、換言すれば、自身をとりまく世界に有意義な関与ができないことに対する個々人の大きなフラストレーションから発した行き場のない憎悪が出口を発見したといえる。「現代世界は、はけ口を探す絶望的なフラストレーションとさまよい歩く恐怖で、満杯となった容器のようだ」とバウマンは述べた。
 現代社会が孕むフラストレーションの具体的な痕跡を「2チャンネル」のようなインターネットの掲示板に見ることができる。その掲示板の書き込みを読んで驚くのは、(おそらく)教育水準もそれほど低くない赤者たちが毒々しい憎悪をあからさまに表現しているというだけでなく、それが執拗に繰り返されている点だ。その悪意に満ちた言葉は、まるで出口を求め制限された空間の中を飛び回るハエの羽音のようだ。掲示板に書き込まれるレトリックは同じものの繰り返しにすぎないが、その標的は目まぐるしく変化する。ある時は憎悪の行き先が北朝鮮や「中国人犯罪」だったかと思うと、次にイラクで拘束された三人のような特定の個人や集団へと変化する。標的を求めて「彷徨する」憎悪である。まさにそれゆえ、この憎悪は深刻に受けとめねばならない。イラク人質に対する憎悪の嵐がたとえ過ぎ去ろうとも、新しい危機はまた訪れ、その際にはより大きい共同の憎悪の標的が必ず新たにデッチ上げられるのだから。(p.206~7)
 鋭い分析ですね。憎悪の標的をつくりだすことに長けた石原氏や橋下氏、かつての小泉氏のような人物が人気を博す理由がよくわかります。それではこの袋小路から抜け出す路、違う選択肢(オルタナティブ)はあるのか。著者はこれを三つの課題として提示されています。(p.194~8) まず、国家・官僚・企業による癒着と連携を統制する指針を制定すること、具体的に言えば、憲法によって企業活動を統制すること。なるほどと思ったのは、企業について言及する憲法を持つ国はないのですね。こうした改憲なら大賛成です。第二に、市場と国民国家の関係や、市場の機能を規定する国際法や国際機関の枠組みを再編成すること。第三に、現代社会が持つ複合性をより理解可能なものへと転化させるための努力。これに関しては情報へのアクセスと教育が重要だと指摘されています。前者については、当然メディアが大きな責任を負っています。政府発表の検証、日々変化する事態にかかわる客観的な取材、そして視聴者・読者への情報の提供などですね。後者については、我々の生きる世界の現実にかかわる知識、世界認識のための多様な解釈、人々の生に影響をおよぼす法規や制度(ナショナルな憲法や議会、多国籍企業、WTOのような国際機関、軍隊、刑務所、国際的・国内的法制度)について学ぶ機会を、生徒に提供すること。残念ながら、偏狭で抽象的なイデオロギーで現代社会を単純化し、国家の誇りなどといった空虚な言葉や愛国心の表示、国旗・国歌にかかわる儀式行動を子供たちに強要しているのが、日本の教育の現状だと指摘されています。(p.197)

 なお著者のことを調べていて、びっくらこいてぶっとんでしまったのは、夫君はあの森巣博氏なのですね。なるほど、旦那さんは奥さんの姓(モーリス)を、奥さんは旦那さんの姓(スズキ)を名乗っているわけだ。氏については、拙ブログで「戦争の克服」「ご臨終メディア」の書評を掲載したのでご照覧ください。また、「無境界家族」(集英社)、「無境界の人」(集英社)というとてつもなく面白い本もあるのですが、ギャンブラーにして、現代の国家や社会を鋭く批判する評論家。ほんとに驚きました。この御夫婦の会話を一度聞いてみたいものですね。
by sabasaba13 | 2013-07-27 06:42 | | Comments(0)
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