甲斐路編(1):前口上(12.5)

 先日、井出孫六氏の『国を越えた日本人』(風涛社)というおもしろい本を読みました。日本という狭い枠を越えて海外で活躍した日本人、野口英世、朝河貫一、藤田嗣治、岡田嘉子、土方久功、浅川巧、中江丑吉と鈴江言一を紹介したものですが、中でも心惹かれた方が三人います。まず日本法制史、日欧の封建制度比較研究を専門とし、イェール大学教授となった朝河貫一。日露戦争後の日本の姿に危機感を覚え、警鐘を発するために『日本の禍機』(1909)を著し、1941(昭和16)年には、日米開戦の回避のためにラングドン・ウォーナーの協力を得て、フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書を送るよう、働きかけを行った歴史学者です。二人目が中江丑吉、中江兆民の長男ですが、中国を愛し、北京に住んで中国思想やカント、ヘーゲル、マルクス、マックス・ウェーバーの研究に一生を捧げた在野の知識人です。鋭い知性と観察眼によって枢軸国側の敗北を確信し、私的な立場から警告を発し続けた方です。そしてもう一人が浅川巧。「浅川伯教・巧兄弟資料館のブログ」から引用します。
 浅川伯教(のりたか)・巧(たくみ)兄弟は、明治時代半ばに今の北杜市高根町に生まれました。日本の植民地統治下の朝鮮半島に渡り朝鮮工芸の美に魅せられ研究した人です。兄の浅川伯教は、朝鮮陶磁史の研究にその生涯を捧げ、弟の巧は朝鮮の山と工芸、そして朝鮮の人々を愛しました。
 兄の伯教は、朝鮮の美術に魅了され、1913(大正2)年朝鮮に渡り、700箇所にも及ぶ朝鮮王朝陶磁の窯跡を調査し研究しました。陶磁器の時代的変遷を明らかにした研究成果は、朝鮮陶磁史の基本文献としてまとめられ今日に至っています。
 弟の浅川巧は、1914(大正3)年、兄の伯教を慕って朝鮮半島に渡り、林業技師として荒廃した山々の緑化に奔走するかたわら、兄とともに「朝鮮白磁」をはじめとした朝鮮陶磁の研究に心酔し、名著『朝鮮陶磁名考』を書き残しました。巧はまた、木工芸品の中に民衆芸術の美を見出し、優れた文化として日本に紹介しました。巧は、日本の植民地支配の時代にあって、現地の人々に同じ人間として接し、朝鮮語を話し、その地の風俗や文化を愛し、まわりの人々に敬愛され、1931(昭和6)年に40歳の若さで朝鮮の土となりました。今も、ソウル市忘憂里(マンウリ)にある墓は、彼を慕う韓国の人々によって守られ続けています。
 竹島をめぐって険悪な関係がおさまらない日韓関係、拉致問題・ミサイル問題をめぐり対立が続く日朝関係、こういう時だからこそ、朝鮮を愛し抜いた彼のような人物に思いを馳せたいものです。迷宮から脱するためのアリアドネの糸が見つかるかもしれません。というわけで、今回は山梨県北杜市にある彼の墓の掃苔と資料館見学を軸に、一泊二日の山梨旅行を計画しました。初日は、山梨県立美術館と文学館を見学して、太宰治の足跡を求めて甲府を徘徊して同市内で宿泊。二日目は、信玄堤を見た後、長坂へ移動して浅川巧の墓参と資料館見学、そして小淵沢からバスに乗って中村キース・ヘリング美術館へ、再びバスで三分一湧水を見て甲斐小泉駅から帰郷。こんな感じでざっくりと旅程をたて、後は野となれ山となれ、臨機応変に行動しましょう。事前学習で読んだ本は『朝鮮の土となった日本人 浅川巧の生涯』(高崎宗司 草風館)、持参した本は『夢よりも深い覚醒へ 3・11後の哲学』(大澤真幸 岩波新書1356)です。
by sabasaba13 | 2013-08-31 08:24 | 中部 | Comments(0)
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