甲斐路編(5):甲府(12.5)

 ふと目をあげると、甲府の町を抱くように山々が聳えています。ガイドブックによると、太宰治は随筆にこう綴っているそうです。
 まちを歩いて、ふと顔をあげると、山である。銀座通りという賑やかな美しいまちがある。堂々のデパアトもある。道玄坂あるいている気持ちであるけれども、ふと顔をあげると山である。へんに悲しい。
 甲府は日ざしの強いまちである。道路に落ちる家々の軒の日影が、くっきり黒い。家の軒は一様に低く、城下まちの落ちつきはある。表通りのデパアトよりも、こんな裏まちに、甲府の文化を感ずるのである。
 今では無個性な家々が建ち並び、その雰囲気の片鱗しか味わえませんが、山はまだそこにありました。戦争中に太宰一家が疎開した細君の実家・石原家も、もう残っていません。なおこお頃のことや甲府空襲については小説『薄明』の中で克明に描かれているとのことです。というわけで、太宰治物件探訪はこれにて幕。彼の存在がちょっと身近に感じられるようになりました。あまり良き読者とは言えませんが、これを機に、彼の小説を年代順に集中して読んでみようかな。なお後日に読んだ『日本の百年4 明治の栄光』(橋川文三編著 ちくま学芸文庫)を読んでわかったのですが、大逆事件の中心人物であった宮下太吉は甲府の出身だったのですね。以下、引用します。
 宮下は、1875(明治8)年9月、甲府市若松町に生まれた。学校は小学校の補習科を出たばかりだが、研究心の強い鋭い感覚をもった青年であった。甲府市周辺はふしぎに「不敬」に結びつくような幾人かの人物を出している。朴烈事件の金子文子、風流夢譚事件の深沢七郎がそれであり、また「たけくらべ」などのやさしい作品を書いた甲州出身の樋口一葉もまた、その心のうちには熱い反逆の熱情をひそめていた女性である。(p.446)
 なお正確に言うと、金子文子は8~9歳の頃に山梨県北都留郡→山梨県東山梨郡諏訪村大字下杣口で暮らし、深沢七郎の出身地は山梨県東八代郡石和町、樋口一葉は両親が山梨郡中萩原村(現:甲州市塩山)の出身です。叛徒を育んだ地・山梨、怪しく私の心を波立たせます。今度来るときは、宮下太吉・金子文子物件の探訪というディープな試みに挑んでみましょうか。ホテルに着いてチェックイン、さあそれでは夕食を食べる店をさがしにいきますか。ご当地B級グルメ鳥もつ煮は以前にいただきましたので、それ以外のご当地料理でも食べようかなとそぞろ歩きをしていると、「プラハ」という名のレストランがありました。プラハ? オーナーがモーツァルトの交響曲第38番が好きなのか、あるいはフランツ・カフカを研究しているのか、はたまたヤン・フスを崇拝しているのか、ちょいと気になるところですね。お品書に鯖の塩焼き定食もあることだし、こちらで夕食をいただくことにしました。中に入るとレストランというよりも大衆食堂、ティッシュのかわりにトイレットペーパーが置かれている心暖まるお店でした。鯖の塩焼き定食をたいらげ、お代を支払うときにさっそく命名の由来について女将に尋ねてみました。曰く、「以前に甲府にやってきたプラハの交響楽団の演奏を聴いて気に入ったから」。ちゃんちゃん。そして地酒を購入し、部屋に戻って一献傾けながら明日の旅程を確認して就寝。
c0051620_6184327.jpg


 本日の一枚です。
c0051620_619587.jpg

by sabasaba13 | 2013-09-04 06:19 | 中部 | Comments(0)
<< 甲斐路編(6):信玄堤(12.5) 甲斐路編(4):甲府市朝日町(... >>