甲斐路編(8):浅川伯教・巧兄弟資料館(12.5)

 そしてタクシーに乗ること十分ほどで、浅川伯教・巧兄弟資料館に着きました。タクシーとはここでお別れ、それでは入館いたしましょう。小振りな資料館ですが、兄弟へのあたたかい思いがあふれています。二人の年譜、日記などの遺品、巧の窯跡調査や韓国の衣食住を紹介したジオラマ展示などを興味深く拝見いたしました。
c0051620_8505370.jpg

 ミュージアム・ショップで購入したパンフレットや前掲書を参考にして、あらためて浅川巧の事績を紹介します。朝鮮の美術に魅了された兄・浅川伯教(のりたか)は、1913(大正2)年朝鮮に渡り、700箇所にも及ぶ朝鮮王朝陶磁の窯跡を調査し研究しました。その兄を慕い浅川巧が朝鮮にわたったのは1914(大正3)年で、山梨県立農林学校を卒業し秋田で植林や伐採の経験をもつ彼は朝鮮林業試験所に勤務することになりました。養苗の種子を採集するために朝鮮各地を訪ねた巧は、朝鮮の人々の暮らしや文化と親しみ、朝鮮民芸への造詣も深めていきました。その研鑽の成果が名著『朝鮮の膳』『朝鮮陶磁名考』として結実します。また彼は、伐採による自然破壊にも立ち向かい、新しい造林法や砂防植栽実験にも取り組みます。また『白樺』同人とともに協力して寄付を募り、兄弟の夢であった朝鮮民族美術館も設立しました。また彼は平素から韓国人に親切で、自分は飢えても困っている彼らを助け、何人かの韓国人の学生には奨学金も与えていました。
 1931(昭和5)年、浅川巧は急性肺炎によって死去しました。享年四十歳。貧しい韓国人同僚や労働者を助けたので、葬儀の費用さえなかったそうです。遺言どおりに、韓国式に埋葬されましたが、その様子が『国を越えた日本人』(井出孫六 風涛社)ではこう綴られています。純白の朝鮮服に包まれた巧の遺骸は、重さ四十貫の棺に納められました。巧を敬愛する里門里の村人三十人が棺を担ぐことを申し出るなか、村長が十人を選びます。清涼寺の三人の尼の「アサカワサンシンダンジー、アイゴー」という悲痛な叫びに送られ、十人の朝鮮人に担がれた棺は、十町先の里門里の共同墓地へと運ばれていきました。林業試験場における巧の部下の朝鮮人人夫たちが葬いの歌を静かに歌いながら棺に土をかけて棒でつき固めていき、浅川巧は朝鮮の土となりました。(p.204)
 彼の言葉をいくつか引用しましょう。Ⅰの出典は『国を越えた日本人』、Ⅱの出典は『朝鮮の土となった日本人 浅川巧の生涯』(高崎宗司 草風館)です。
 一体日本人は朝鮮人を人間扱いしない悪い癖がある。朝鮮人に対する理解が乏しすぎる。朝鮮人といえば誰も彼も皆同じだと考えている。白い着物さえつけていたら皆同じ朝鮮人と心得ている。(Ⅰp.200)

 エスはエルサレムの宮の壮大も跡かたもなく消え失せることを警告している。日本は大東京を誇り軍備を鼻にかけ万世一系を自慢することは、少し謹しむべきだと思う。人類共通の宝を天に積むことが永世に生きる途であることを教会は力説したい。(Ⅰp.202)

 夏に冬を慕い冬に夏をのみ思ふは愚者なり。夏ありて夏を楽しみ冬来れば冬を味ふ、この心を神は嘉す。自然に於ける草木の如く正しき成長はそこにのみある。(Ⅱp.128)

 彼等には自然の或物を握らう、不思議を解ふ、活きた力に触れ様と云ふ欲求が殆どない。学校で習つた人形の様の如き知識を弄んでゐる。一体何学校を卒業したと云ふことを看板にして飯を食はうと云ふ考へが救はれない考へだ。(Ⅱp.141)

 彼等はこれから朝鮮の国境の森林を、ねらつて居ることは明かだ。北海道も彼等によつて裸かにされた。樺太だつてもういくらも余さないだらう。それでこれからは鴨緑江上流から西比利亜に見込をつけて居るだらう。… 兎に角あんな工業は森林を荒らすにきまつて居る。此処十数年で朝鮮の森林をも松毛虫の様に食ひ尽すであらう。製紙事業は今の世に必要にきまつて居るから利用するのは一向差支へないが、これにとものふて跡地の荒れない様の斫伐法と森林が永続する様の造林法が実現されることが必要だと思ふ。(Ⅱp.141~2)


 本日の一枚です。
c0051620_8511987.jpg

by sabasaba13 | 2013-09-07 08:51 | 中部 | Comments(0)
<< 甲斐路編(9):浅川家墓所(1... 甲斐路編(7):津金学校(12.5) >>