富士五湖編(11):天下茶屋(12.5)

 そして天下茶屋に到着。二つの山の間から河口湖を抱いた富士がきれいに見えました。それでは茶屋の二階にある「太宰治記念室」を見学させていただきましょう。なお茶屋の建物は、太宰が滞在したものから三代目にあたるそうで、開店は1983(昭和58)年です。
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 それでは太宰がここで逗留したいきさつについてひとくさり。1937(昭和12)年、パビナール中毒で彼が入院している時に、妻・初代の浮気が発覚します。ショックを受けた太宰は、初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチン自殺を図りますが未遂(四回目!)となり、彼女とは離婚することになります。師である井伏鱒二は太宰のすさんだ生活を変えるために、自分が滞在していた富士のよく見える、御坂峠のここ天下茶屋に招待しました。こうした気分転換が功を奏して徐々に太宰の精神は安定していき、1938(昭和13)年、井伏が紹介した高校教師・石原美知子と見合い、婚約。翌年、彼女の出身地であるここ甲府市御崎町の新居に移りました。八ヵ月ほど新婚生活を送った後、東京・三鷹に転居。1945(昭和20)年4月に再び甲府にある妻の実家に疎開しますが、爆撃のため全焼。妻子を連れかろうじて津軽の生家へたどりつき、翌年の11月に三鷹の自宅に戻ります。この時期は中期の安定期と言われ、『駆込み訴へ』(1940)、『新ハムレット』(1941)、『富岳百景』(1943)、『津軽』(1944)、『新釈諸国噺』『お伽草紙』(ともに1945)といった傑作群が生み出されました。おしまい。
 なお太宰は『富嶽百景』の中でこう書いています。
 御坂峠、海抜千三百米メエトル。この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。私は、それを知つてここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。
 井伏氏は、仕事をして居られた。私は、井伏氏のゆるしを得て、当分その茶屋に落ちつくことになつて、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合つてゐなければならなくなつた。
 二階の富士山と河口湖を一望できる六畳間に、太宰治が逗留していた部屋が復元されていました。彼が使用していた机・火鉢・徳利・杯や、彼が買い求め花瓶として使った壺なども展示されています。そして「富獄百景」「斜陽」「人間失格」などの初版本や、パネル展示を見学。
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 なお茶屋の前から山道をすこしのぼると、"富士には月見草がよく似合ふ"という碑文の文学碑があります。ふりかえれば、木の葉の間から富嶽が顔をのぞかせています。そうか、太宰は富士の如き作家たちの前と相対峙して微塵もゆるがず、月見草のように健気にすっくと立ちたかったのかもしれませんね。碑陰には「惜しむべき作家太宰治君の碑のために記す」と、井伏鱒二が愛弟子のために捧げた言葉が刻まれていました。
 太宰君は昭和十三年秋 遇々この山上風趣の爽快に接し乃ち峠の草亭に假寓して創作に専念 厳冬に至って坂を下り甲府に僑居を求めて傑作富嶽百景を脱稿した 碑面に刻む筆蹟はその自筆稿本より得た 昭和二十八年秋 井伏鱒二
 彼の存在を抜きにして太宰治について語れることはできないでしょう。1930(昭和5)年に東京帝国大学に入学したときに井伏にはじめて逢い、以後ながく師事しました。金銭感覚のない太宰の世話をし、津軽からの送金も井伏を通して渡されていたそうです。精神病院入院の段取り、小山初代との離別の後始末、天下茶屋滞在や石原美知子との結婚も、すべて彼のはからいなのですね。短い文章ながらも、太宰への哀惜の念が伝わってきます。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-09-30 06:21 | 中部 | Comments(0)
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