イタリア編(23):ドゥオーモ(12.8)

 両側に家々が迫る狭い路地を歩いていくと、その隙間からドゥオーモの偉容が見えてきました。そしてサンタ・マリア・デル・フィオーレ(Santa Maria del Fiore)、花の聖母寺に到着です。1296年に建設が始められ、1436年にブルネレスキによって巨大な円蓋がかけられた、フィレンツェの象徴ですね。
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 ここは以前に訪れたので、内部と鐘楼の見学は省きます。この大ドームについては会田雄次氏の的確な解説があるので紹介しておきます。[『世界の歴史7 近代への序曲』(中公文庫)より]
 15世紀はじめ、ブルネレスキという建築と彫刻の名人によってフィレンツェの「花のサンタ-マリア寺」の大ドームの建築に成功したことは、ルネサンスの到来を告げる建築史上の革命であった。ブルネレスキは、何とかして、無数の柱の集合によって高さを生み出すゴシック様式から離れたいと考え、四辺から壁石を細めていって力の均衡で柱なしに大ドームを作ることに成功した。…
 ここに大切なのは、このドームによってつくりだされた空間である。この空間は、ゴシック教会堂のように大きいステンドグラスの窓で外界に接するのではなく、厚い壁で囲まれた、独自な、そして単純な幾何学的空間である。それは外界の、無限に無方向に無秩序にひろがる自然に対し、独自な世界があることを主張しているのである。
 このような主張はルネサンス-イタリア都市の要求であった。…イタリア都市は、北方都市とはちがって、国王の権力や権威に依存しない市民の都市であり、市民を主人公とし広い領域を支配する領邦国家であった。このような小国家の独立性を主張し誇示することが市民の精神の要求であった。ここにがっしりとした小宇宙を構成する大建築物が、市の象徴とする教会堂に要求される。高さによる壮大さと、飾りの多いことによる贅沢さだけを誇示するゴシック建築が、実力があり矜持の高いイタリア市民を満足させなかったのは当然であろう。統一、簡素、堅固、洗練を目ざすルネサンス建築はここから展開するのである。(p.93~94)
 なおこのドーム建設の陰には、やはりミラノとの確執があったことが『物語イタリアの歴史』の中で指摘されています(p.152~3)。小生の文責で要約しましょう。ミラノが君主独裁の国家であるのに対して、フィレンツェは曲がりなりにも自由な民主国家で、内実は富豪独裁であっても、形式は民主制を維持していました。ミラノでは「市民」という言葉すら禁じられ、御領主様の家系、つまりヴィスコンティ家の「臣下」と言わなければなりませんでした。両国の市民はそれぞれ自国の美点を誇り、相手の欠陥を攻撃しました。一方がその市民的自由と経済力を誇れば、他方はその治安のよさと精強な軍事力を誇り、一方が共和政ローマに自国の歴史を結び付ければ、他方はかつて帝政ローマの首都であり、その精神を受け継いでいると強調。そしてこの対照は芸術面にも現れ、ミラノの国際ゴシック様式に対抗して、ブルネレスキを先頭とするフィレンツェ美術は、新しい反ゴシックの先鋭な美学を打ち出すことになります。ミラノが新しい大聖堂を無数の尖塔のそそり立つゴシック様式で確立するなら、フィレンツェ大聖堂の工事を再開し、反ミラノ・反ゴシックの象徴のような円蓋を取り付けて見せねばならぬ。それも、ミラノのように宮廷の御用美術家に任せるのではなく、市民の間から設計を募集し、市民の代表の審査によって建築家を選ぶのだ、というわけですね。そこで市民が選んだのがフィリッポ・ブルネレスキ(Filippo Brunelleschi)のプランでした。藤沢通郎氏は同書の中で、次のように述べられています。
 この円蓋のうえからかぶさるようなヴォリュームと、建物全体の力を一点に集中するように見える形態は、無数の尖塔を立てて空中に力を拡散させるゴシック様式と、ちょうど正反対である。ミラノ大聖堂の建築家たちは、建物に働く力を一つ一つ個別化し、火花のように鋭くまばゆい尖塔の森を通じて空中に拡散しようと、懸命に努力していた。ブルネレスキはそれとはまったく逆に、建物に働くすべての力を総括し、均衡させ、無化する。(p.172~3)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-12-03 06:19 | 海外 | Comments(0)
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