『街場の憂国論』

 『街場の憂国論』(内田樹 晶文社)読了。ほんとうにほんとうに、ほんとうに日本はどうなってしまうのでしょう。アメリカの走狗となって戦争をしたがり、中国や韓国には喧嘩腰で、放射能汚染は見て見ぬふりをして原発再稼働を虎視眈々とねらい、沖縄の基地問題を解決する意思は毛頭なく、大企業の利益を最優先して99%の国民を蔑ろにし、そして昨日特定秘密保護法案をなりふりかまわず強権的に成立させてしまった安倍伍長政権。そうした現実を知ってか知らずか、安倍政権をおおむね支持し、東京オリンピック誘致成功に浮かれる人びと。末法の世に入ったことはうすうす感じておりますが、彼とその背後にいる財界がどのような末法を望んでいるのか、いまひとつ具体像が結べません。己の力不足を棚に上げてこんなこと言うのは心苦しいのですが、こういう時にこそすべてがすとんと腑に落ちるような「大きな物語」を紡ぐのが知識人の役目たるはず。骨太の力業を見せてくれる方はいないものか… いた! 出会えました。
 その方の名は内田樹氏。本書は氏のブログから選ばれた「政治ネタ」の随筆ですが、明晰で歯切れのよい文章、該博な知識、説得力のある理路、そして巨視的な歴史眼には頭を垂れましょう。例えば、冒頭の一編「壊れゆく国民国家」では、日本の現状を国民国家の解体過程と喝破されています。国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを存在理由とする国民国家が、グローバル企業の利害を国民の犠牲の上に優先するようになったということです。なおグローバル企業とは、昔々、日本国内で日本人によって起業されましたが、今では株主も経営者も従業員も多国籍で、生産拠点も国内には限定されない「無国籍企業」です。彼らは、国民国家は「食い尽す」ための使いでのある資源のように、ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出します。「われわれは生産拠点を海外に移すしかない。そうなったら国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、税収もなくなる。それでもよいのか」と。原発再稼働もその一つですね。原発を止めて火力に頼ったせいで、電力価格が上がり、製造コストがかさみ、国際競争で勝てなくなった。日本企業に「勝って」欲しいなら原発再稼働を認めよ。そうして本来企業が負担すべきコストを国民国家に押しつける、いわゆる外部化です。以下、引用します。
 汚染された環境を税金を使って浄化するのは「環境保護コストの外部化」である(東電はこの恩沢に浴した)。工場へのアクセスを確保するために新幹線を引かせたり、高速道路を通させたりするのは「流通コストの外部化」である。大学に向かって「英語が話せて、タフな交渉ができて、一月300時間働ける体力があって、辞令一本で翌日から海外勤務できるような使い勝手のいい若年労働者を大量に送り出せ」と言って「グローバル人材育成戦略」なるものを要求するのは「人材育成コストの外部化」である。要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押しつけて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである。(p.25)
 そしてグローバル企業が、コストを国民に押しつける際の唯一の論拠が、「われわれが収益を最大化することが、すなわち日本の国益の増大なのだ」というロジックです。国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」であるのだから、一億心を合わせてその企業活動を支援せねばならない、国民はその負担を甘受せよ。国民は低賃金を受け容れ、地域経済の崩壊を受け容れ、英語の社内公用語化を受け容れ、サービス残業を受け容れ、消費増税を受け入れ、TPPによる農林水産業の壊滅を受け容れ、原発再稼働を受け容れるべきだ、という話になっています。
 この要求を国民に「飲ませる」ためには「そうしなければ、日本は勝てないのだ」「これは戦争なのだ」という情緒的な煽りがどうしても必要となります。そして国民を「私たちはどんな犠牲を払ってもいい。とにかく、この戦争に勝って欲しい」という上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの亢進は不可欠です。だから、安倍自民党は中国や韓国を外交的に挑発することにきわめて勤勉なのですね。外交的には大きな損失ですが、その代償として日本国民が「犠牲を払うことを厭わない」というマインドになってくれれば、国民国家の国富をグローバル企業の収益に付け替えることに対する心理的抵抗が消失するわけです。
 こうして日本の国富はグローバル企業へ、そして各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へと移し替えられていきます。現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っているからですね。そして"今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵を取っている。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。たぶんこれが国民国家の「末期」のかたちなのだろう"という一文でしめくくられます。ブラーボ!
 今、日本で何が起きているのか、すとんと腑に落ちました。この骨太の力業、やはり原文で味わっていただきたいので、自民党改憲案と沖縄基地問題を論じた一文を引用します。
 もう「全員がこの四つの島で生涯を過ごす」ことは統治者にとって、政策決定上の本質的な条件ではなくなった。だから今、「この四つの島から出られない機動性の低い弱い日本人」を扶養したり、保護したりすることは「日本列島でないところでも生きていける強い日本人」にとってもはや義務としては観念されていない。むしろ、「弱い日本人」は「強い日本人」がさらに自由かつ効率的に活動できるように支援すべきだとされる。
 国民的資源は「強い日本人」に集中しなければならない。彼らが国際競争に勝ち残りさえすれば、そこからの「トリクルダウン」の余沢が「弱い日本人」にも多少は分配されるかも知れないのだから。
 「弱い日本人」は「強い日本人」に奉仕しなければならない。人権の尊重を求めず、「パイ」の分配に口出しせず、医療や教育の経費は自己負担し、社会福祉には頼らず、劣悪な労働条件に耐え、上位者の頤使に黙って従い、一旦緩急あれば義勇公に報じることを厭わないような人間になることが「弱い日本人」には求められている。そのようなものとして「強い日本人」に仕えることが。
 これが安倍自民党が改憲によって日本人に飲み込ませようとしている「新しいルール」である。改憲の趣旨は、一言で言えば、「強い日本人にフリーハンドを与えよ」ということである。
 自民党の改憲案を「復古」とみなす護憲派の人たちがいるが、それは違うと思う。この改憲案はやはり「新しい」のである。
 国政の「採算不芳部門」である医療、教育、保険、福祉などをばっさり切り捨ててスリム化し、国全体を「機動化」することをねらっているからである。それは国民の政治的統合とか、国富の増大とか、国民文化の洗練とかいう、聞き飽きた種類の惰性的な国家目標をもはや掲げていない。改憲の目標は「強い日本人」たちのそのつどの要請に従って即時に自在に改変できるような「可塑的で流動的な国家システム」の構築である(変幻自在な国家システムについて言うには「構築」という語は不適当だが)。
 国家システムを「基礎づける」とか「うち固める」とかをめざした政治運動はこれまでも左右を問わず存在したが、国家システムを「機動化する」、「ゲル化する」、「不定形化する」ことによって、個別グローバル企業のそのつどの利益追求に迅速に対応できる「国づくり」(というよりはむしろ「国こわし」)をめざした政治運動はたぶん政治史上はじめて出現したものである。安倍自民党の改憲案の起草者たちは、彼らは実は政治史上画期的な文言を書き連ねていたことに気づいていない。(p.38~9)

 戦後67年間ずっとアメリカに日本は国防構想の起案から実施まで全部丸投げにしてきた。
 自分で考えたことがないのである。
 国防はもちろん軍事だけでなく、外交も含む。
 日本のような小国が米中という大国に挟まれているわけだから、本来なら、秦代の縦横家のよくするところの「合従連衡」の奇策を練るしかない。
 だが、「日米基軸」という呪文によって、日本人はスケールの大きな合従連衡のビッグピクチャーを描く知的訓練をまったくしてこなかった。
 ここでアメリカに去られて、自前で国防をしなければならなくなったときに、対中、対露、対韓、対ASEANで骨太の雄渾な東アジア構想を描けるような力をもった日本人は政治家にも外交官にも学者にもいない。
 どこにも、一人も、いない。
 だって、「そういう構想ができる人間が必要だ」と誰も考えてこなかったからである。
 日本のエスタブリッシュメントが育ててきたのは、「アメリカの意向」をいち早く伝えて、それをてきぱきと実現して、アメリカのご機嫌を伺うことのできる「たいこもち」的な人士だけである。
 アメリカが日本の国防を日本の主権に戻した場合に、日本にはその主権を行使できるだけの力がない。
 できるのは、とりあえずは自衛隊の将官たちを抜擢して、閣僚に加え、彼らに国防政策の起案と実施を丸投げするだけである。
 国民のかなりの部分はこれに賛同するだろう。
 既成政党の政治家より制服を着た軍人たちの方がずっと頼りになりそうだし、知的に見えるからだ。
 だが、政治家たちも霞ヶ関の官僚たちもメディアも「軍人に頤使される」ということを想像しただけでアレルギーが出る。さきのいくさの経験から、軍人たちを重用すると、政治家と官僚が独占してきた権力と財貨と情報が軍部にごっそり奪われることを知っているからである。
 だから、「日本に国防上の主権を戻す」という、独立国としては歓呼で迎えるべきオッファーを日本政府は必死で断ることになる。
 国防上の主権は要りません。主権を行使する「やり方」を知らないから。これまで通り、ホワイトハウスから在日米軍司令官を通じて自衛隊に指示を出してください。
 それが日本政府の本音である。
 だから、日本政府に残された選択肢は一つしかないのである。
 アメリカが帰りたがっても、袖にすがりついて、「沖縄にいてもらう」のである。
 金はいくらでも出します。消費税を上げて税収を増やすので、それを上納しますから。どうかいかないで。Don't leave me alone.
 それが日本政府の本音である。
 だから、「アメリカの軍略の変化」について言及しないのである。基地問題がスタックしているのは、「スタックすることから利益を得ている当事者」がいるからである。
 ひとりは「もめればもめるほど、日本政府から引き出せる金が増える」ということを知っている国防総省であり、ひとりは「いつまでもアメリカを日本防衛のステイクホルダーにしておきたい」日本政府である。
 交渉の当事者双方が、「話がつかないこと」の方が「うっかり話がついてしまうこと」よりも望ましいと思っているのだから、沖縄の基地問題の交渉は解決するはずがない。
 悲しいけれど、これが問題の実相なのである。
 別に沖縄問題の裏事情に通じているわけではないが、新聞を読みながら推理すると、こう考えるしか合理的な説明が存在しないのである。(p.171~3)

 追記。まるで特定秘密保護法の成立を祝福するかのように、福島第一原発の屋外設備で、過去最高値の放射線量(毎時25シーベルト)が計測されたそうです。人が浴びると20分足らずで死に至る強さとのこと。自民党の走狗・読売新聞の報道ですから間違いないでしょう。やれやれ、これからはこうしたこともばれないですむぞと、原発も大喜びしているのかもしれません。それにしても、自民党に投票し安倍伍長政権を支持すればこうなるのは、ちょっと考えればわかりそうなものですが。国民のイグノランスの深淵は計りがたい…(清沢洌『暗黒日記』)
by sabasaba13 | 2013-12-07 08:33 | | Comments(0)
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