「日本語で生きるとは」

 「日本語で生きるとは」(片岡義男 筑摩書房)読了。片岡義男? 「スローなブギにしてくれ」という小説を書いた人だったっけ、♪御中…♪という曲がついて映画化されたような気がするし、まあお手軽気軽に読める若者向けの作品を書いた小説家という貧困な印象しか持っていませんでした。しかし本作を読んで驚天動地。これだけ真剣に英語と日本語、さらには言葉について考えていたんだ。西洋中世史研究者、阿部謹也氏が述べていた、彼の師である上原専禄氏の話を思い出しました。(「自分のなかに歴史をよむ」 ちくまプリマーブックス15) 
 「解るということはいったいどういうことか」という点についても、先生があるとき、「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」といわれたことがありました。それも私には大きなことばでした。もちろん、ある商品の値段や内容を知ったからといって、自分が変わることはないでしょう。何かを知ることだけではそうかんたんに人間は変わらないでしょう。しかし、「解る」ということはただ知ること以上に自分の人格にかかわってくる何かなので、そのような「解る」体験をすれば、自分自身が何がしかは変わるはずだとも思えるのです。
 そういう意味で、片岡氏の言いたいことが少し解り、自分が少し変わったという気がします。

 彼の主張はこうです。言葉とは、自前の頭でものごとを考え抜くための道具である。そしてさまざまに異質な他者と、しがらみを離れて論理の言葉をつくして対等に論議をし、誰にとっても共通して作用する新しい価値を作り出すための道具である。つまり「公共性」を協力して作り出すのが、言葉の重要な機能であるということでしょう。「公共性」とは、原則として全員にプラスに作用する普遍的な価値のことです。
 しかし、日本語はそういう意味で機能していない。まずは日本語自体の性能が原因です。これはアッと息を呑んだ指摘なのですが、英語の“you”は和訳できないのですね。「あなた」「君」「お前」「てめえ」などと、常にその場の人間関係・上下関係・損得関係を配慮して使い分けないといけない。英語の“you”は、しがらみを離れてどんな他者に対しても使える二人称代名詞です。
 でもこれは日本語自体の責任ではないと、著者は言います。そもそも非論理的な言語などありえない、非論理的な使い方が問題なのだと。少し考えてみたのですが、会議の場で「私は、あなた方の考えは間違っていると思う。」と私は言えません。「みなさんの…」と言います。「私」と「あなた方」を切り離し向かい合わせるのを恐れます。だから両者をあいまいにぼかした「みなさん」という言い方をします。日本語では主体と客体を混然させる表現が好まれるのですね。英語だったら“I think your opinion is wrong.”ですむのにね。でも少し勇気を出せば、主体と客体をきちんと切り離した前述のような表現は可能です。
 要するに、事態や物事を曖昧にごまかすための道具として日本語が使われているのが問題だというのが著者の主張です。
 言葉とはなにのための道具なのか。日本語は良く言ってひとりひとりの心に奉仕するものだ。あらゆるものが、言葉によって、主観という曖昧さのなかに、安住の地を見つける。とにかくすべては主観のなかにある、ということで問題は完結してしまう。英語は人の心の外にあるものに奉仕する。事象や事柄、実際に起きたこと、現実、そこにあるその問題、などに奉仕する。奉仕するとは、それらを可能な限り正確にとらえ、観察し分析を加えて問題を見つけ、論理的に対応して解決していく作業の始まりから終わりまでを意味する。日本語世界では、これとは反対のことが、ごく普通のこととして、常に起こっているのではないか。
 下手に論理的に考えて「公共性」を実現しようとすると、時間がかかってしょうがない、つまり非効率的である。そこで、誰もがなにもわかっていないのに、わかったつもりで先へ進むことができるような言葉、何も考えずにすむ言葉として日本語は機能しているのではないか。著者は一つの例として「少子化」という言葉をあげています。
 (少子化のもっとも大きな原因は)いまこの国で子供を生んで育てるなんてまっぴらだ、と人々が身にしみて痛感しているからという理由だ。こんな理由で人々が子供を生まなくなるような国は、国の運営のしかたとしてはおそらく最大級の失敗を犯している。少子化という言葉を作った人は、そのことをよく承知している。承知しているからこそ、人々には事態を直視させずに隠蔽すべしという方針で、少子化という言葉をひねり出した。人々に事態を直視させないでおく利点は、問題の核心がぼかされ、したがってその核心に関して追求されることがなく、責任が発生しないということだ。
 日本語は責任を逃れるための道具でもあるのですね。この指摘で思いついたのですが、「公害」という言葉もそうですね。「大企業による環境・健康破壊」という事態を曖昧にぼかして責任逃れをするために作られた言葉でしょう。
 日本語は、まっとうに機能していない。その原因はわれわれの社会のシステムや生き方が原因であるということです。日本語の問題とは、このことですね。日本語は美しいと浮かれたり、日本語が乱れていると嘆いている場合ではありません。
 群れのなかの同調者たちには、自前で徹底して考え抜く作業は、単に不必要であるだけではなく、明らかに邪魔なものですらある。だから彼らには、その真の意味においては、じつは言葉すら必要ではない。
 もはや事態は、ここまで進んでいます。われわれが事態を直視し、異質な他者との「公共性」を求めて自前の頭で考え抜いて行動しなければ、日本語は永劫に物事を曖昧にごまかすための道具として腐敗していくしかないでしょう。

 というわけで大変刺激的な本でした。他者に奉仕するという意識を常にもちつつ、下手な文章を書き綴っていこうと思います。なお著者が言う英語とは、ある程度アメリカやイギリスの文化から切り離された、どこの国の人も、その国の人のままで駆使することの出来る、中立度の高い正用法のなかで使っていく英語、という種類のものだということも補足しておきます。また日本の英語教育に対する痛烈かつ根本的な批判も述べられているので、英語教育に関係している方にもぜひ一読して欲しいと思います。
by sabasaba13 | 2005-06-28 06:14 | | Comments(0)
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