「靖国問題」

 「靖国問題」(高橋哲哉 ちくま新書532)読了。哲学者の高橋哲哉氏が、靖国問題について、感情・歴史認識・宗教・文化・国立追悼施設という五つの観点から分析し自らの意見を述べた本です。この問題については、感情や面子やナショナリズムが複雑にからみあい、なかなか冷静な議論が成立しません。議論が成り立たないと、価値が共有できず、問題のより良い解決から遠ざかる一方です。議論の前提となる問題点をできるだけ整理して、論路的に明らかにするという著者の意図を感じます。
 読後の第一印象は、とにかくわかりやすいく論理的な言葉で書かれているなということ。他者を意識した、他者に理解してもらうための、他者に奉仕する文章です。日本語はじゅうぶんに論理的な言語であり、ただ非論理的な形で使用しているに過ぎないと痛感しました。内容について要約する力量が私にはありませんので、ぜひご一読ください。少なくとも、論理の破綻は見受けられません。
 一つ、氏の明晰な文章を紹介します。(「させていただきます」という表現が氾濫していますが何故なのでしょう? その意図は?) “戦争で「祖国のために死んだ」兵士たちを英雄として讃え、「感謝と敬意」を捧げ、「彼らの後に続け」と言って新たな戦争に国民を動員していくシステム(中略)は、近代の日本だけの問題ではなく、むしろ近代の日本国家が西欧の国民国家から模倣したものとさえ考えられる…”“この論理は、西欧諸国と日本との間で共通しているだけではない。日本の首相の靖国神社参拝を批判する韓国や中国にも、このようなシステムは存在する。” 戦争責任問題とは切り離して、このシステム・論理が世界に存在する限り、戦争が起きる可能性は常に存在し続けるといことですね。より大きな問題にまで、批判の射程が届いています。
 新たな国立追悼施設については、こう述べられています。靖国神社は“「無宗教の国立戦没者追悼施設」を装う「宗教的な国立戦没者顕彰施設であったのだ。” よって第二の靖国神社化して、前述のシステムが機能する可能性が大きいと。
 かなり売れているようですので、この本が与える影響はかなり大きいと思います。価値を共有するための冷静な議論が起きる一助となりそうな予感があります。
 そして遺族の方々にこうした言葉が届くのか。私がもっとも知りたいのは、肉親を死に追い込んだ責任者への怒り・批判は、遺族の方々にあるのでしょうか、ないのでしょうか。きちんとした感情的な怒りと論理的な批判を表明しないと、また同じ事が繰り返されます。もちろん、日本という国家の政治的意思により戦場に送られた戦没者の死に、意味を与えるべきなのか、与えるべきではないのかという問いへの答えによって違ってくるとは思いますが。
It's time we let the dead die in vain.
                                サリンジャー
 もう一つ。本来戦争責任を負うべき者たちが免罪され、A級戦犯とBC級戦犯がすべての責任を負わされて処刑されたことへの、後ろめたさもあるのではないか。もしそうだとすれば、A級戦犯合祀へのこだわりは十分に理解できます。
by sabasaba13 | 2005-06-29 06:12 | | Comments(0)
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