香嵐渓編(7):足助(12.11)

 加東家は酒造業・質屋を営んでいた古い商家で、興味深い解説板がありました。
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 三河最大といわれる加茂一揆(天保七年=1836)は松平に端を発し近郷の参加村数二四七・一万三千人が異常物価高に抗議した住民運動です。作り酒屋であった白木屋は一揆側にとって足助の目標で、柱に鉈で切りつけた跡が残っています。いくつもの酒樽が破られ、酒が川のように流れ出たということです。
 三河一揆、うろ覚えですが、十九世紀前半に起きた激しい農民一揆だったと思います。幸いに座敷にあがることができたので、さっそく鵜の目鷹の目、柱の傷をさがしてみたのですが、私の目が節穴だったせいか、見つけられませんでした。気になったので、帰宅後にこの一揆について調べてみました。たしかこの一揆に関して「鴨の騒立」という記録があったはず、うーんどの本だったっけ、パンッ! 『日本思想大系 民衆運動の思想』(岩波書店)だ。さっそく本棚をごそごそとさがすと、あったあったありました。高橋てん一氏の解説を引用します。
 この年(※1836年)は全国的な大凶作で米価は暴騰し、ことに加茂郡のように山間地帯で田にとぼしい農民の困窮は甚だしかった。この地方は小さな旗本領が多く、領主の役人をかねた高利貸、地主らに対するその日ぐらしの生活に追われるものの対立感情も積っていた。しかも、この地方は山間ながら交通は便利で商業も活発であり、情報も伝わりやすかった。
 一揆は九月二十日夜、松平村・九久平村など加茂郡南部の村々の有志二十余名がひそかに集合し、米・酒などの安売りや頼母子の二年休会および…領主に対する年貢金納相場引き下げなどを要求としてかかげ、その貫徹を誓ったのにはじまった。彼らは翌二十一日夜より行動をおこし、まず手はじめに滝脇村の庄屋宅を打ちこわして気勢をあげ、つづいて六所山、炮烙山をかこむ村々の庄屋・米屋・酒屋などをつぎつぎに打こわし、さらに領主側の陣屋に要求をつきつけてこれを承認させ、次第に領主への反抗を露わにし、一揆の勢力を増大しながら、矢作川支流の巴川にそって下山街道を北上して足助の町にはいり、一部はさらに東北に向かい、主力は足助村民を参加させて反転して尾張藩領寺部を経て挙母城下に進入した。しかし、二十四日の夜明け、矢作川をこえたところで、待ちうけた挙母藩および応援の岡崎藩・尾張藩の銃火にさらされ、五千人をこえる一揆の主力は挙母周辺で壊滅的打撃をうけた。…首謀者は幕府の赤坂役所に引渡され、江戸送りののち、天保9年(1838)、赤坂で処刑が申渡された。(p.477~8)

by sabasaba13 | 2014-04-22 06:33 | 中部 | Comments(0)
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