京都錦秋編(2):東京駅(12.12)

 それはさておき、原敬と聞くと、山県有朋を中心とする官僚勢力に立ち向かい、政党政治の確立に尽力した「大正デモクラシー」を代表する政党人という山川出版社的イメージをかつてはもっていました。南樺太の長官について、陸軍をおしきり、武官にかぎらない旨の制度化をおこなったことなどですね。しかしいろいろな本を読むにつれて一筋縄ではいかない政治家だということがわかってきました。坂野潤治氏は、「日本近代史」(ちくま新書948)の中で、"「大正デモクラシー」の内容を普通選挙制と二大政党制と定義すれば、原敬はこのどちらにも反対した"と指摘されています。よって吉野作造は彼を嫌い、「政治を哲学と科学から離し、まったく行き当りバッタリで行くべき筈のものとする、他に類型のない、世界無比の畸型的政治家」とまで酷評しています。
 さらに彼は陸奥宗光の書記官をしており、陸奥の次男・潤吉が古河市兵衛の養子となって古河鉱業の社長をついだとき、副社長として彼を補佐しました。そのためでしょう、内務大臣となった原敬は、足尾銅山の鉱毒を沈澱させるとともに洪水を防ぐため、谷中村を廃村にし、渡良瀬川遊水池とする計画を推し進めました。1907(明治40)年、土地収用法を適用して住宅を破壊し、田中正造と谷中村村民を強制退去させました。
 また原内閣は、社会主義的思想の広まりを、民衆の抑圧された社会的・政治的生活の解放要求の反映と捉えるのではなく、外部から流入し、下層の民衆を上から扇動するものと考えました。したがって、知識人に対する思想弾圧が政策の機軸となります。1920(大正11)年、「クロポトキンの社会思想の研究」が無政府共産主義を宣伝したとの理由で、東大経済学部教授森戸辰男を新聞紙法違反の罪に問いました。シベリア出兵に際し、欧米軍が撤兵した後も単独で駐兵を続けて多くの犠牲者を出した責任が原内閣にあることも忘れてはならないでしょう。
 イアン・ブルマは、「近代日本の誕生」(ランダムハウス講談社)の中で、次のように述べられています。
 議会の権威を高め、政党政治の力を伸ばすために原敬が取った方法とは、後に自民党が採用し、その結果1950年以降ほぼ一貫して政権を握り続けることを可能にした利益誘導型政治であった。(p.88)
 こうして見ると、原敬のほんとうの姿が浮かび上がってくるようです。民主的要求を斥け、政友会と大企業の利益を最優先し、1%が99%を支配できる社会構造を確立し維持するために、見事な手腕を発揮した政治家。ハーバート・ノーマン曰く、"暗黒の反動と専制的気質の人間"。『橋のない川』(住井すゑ 新潮社)によると、当時、下記のような戯れ歌が流行したそうですが、当時の人々もこのことに気づいていたのかもしれません。
艮一は
もとは鉄道の転轍手
今は
時代の転轍手
ヨーイ ヨーイ デッカンショ (第四巻 p.268)

by sabasaba13 | 2014-05-01 06:23 | 京都 | Comments(0)
<< 京都錦秋編(3):東京駅(12... 京都錦秋編(1):東京駅(12... >>