京都錦秋編(8):尹東柱詩碑(12.12)

 なお同志社礼拝堂の東側の庭に、「尹東柱(ユン・ドンジュ)詩碑」があるという情報を得て探したのですが見つかりませんでした。工事による立ち入り禁止区域にあったのかなあ、これは是非再訪したいものです。なお私の大好きな詩人、茨木のり子氏に「空と風と星と詩」という素晴らしい随筆があるので、かなり長文ですが引用します。
 韓国で「好きな詩人は?」と尋ねると、「尹東柱」という答えが返ってくることが多い。

序詩

死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)

 二十代でなければ絶対に書けないその清冽な詩風は、若者をとらえるに十分な内容を持っている。長生きするほど恥多き人生となり、こんなふうにはとても書けなくなってくる。詩人には夭折の特権ともいうべきものがあって、若さや純潔をそのまま凍結してしまったような清らかさは、後世の読者をもひきつけずにはおかないし、ひらけば常に水仙のようないい匂いが薫り立つ。

 夭折と書いたが、尹東柱は事故や病気で逝ったのではない。一九四五年、敗戦の日をさかのぼることわずか半年前に、満二十七歳の若さで福岡刑務所で獄死した人である。最初は立教大学英文科に留学、やがて同志社大学英文科に移り、独立運動の嫌疑により下鴨警察につかまり、福岡へ送られる。そこで中身のよくわからない注射をくり返し打たれたという。亡くなるまぎわには、母国語で何事かを大きく叫んで息絶えたそうだが、その言葉が何であったか、日本の看守にはわからなかった。だが、「東柱さんは、何の意味かわからぬが、大声で叫び絶命しました。」という証言は残った。

 痛恨の思いなくしてこの詩人に触れることはできない。いずれは日本人の手によって、その全貌が明らかにされなければならない人だったし、その存在を知ってから私も少しずつ尹東柱の詩を訳しはじめていたのだが、彼が逝ってから三十九年目にあたる一九八四年に、伊吹郷氏によって、全詩集『空と風と星と詩』の完訳が成った。私の気勢はそがれたが、伊吹郷氏のみごとな訳と研究には完全に脱帽で、可憐な童謡にいたるまで日本語で読めるようになったのは、なんともうれしいことだった。

 原詩を知る者にとっては、なみなみならぬ労作であることがわかるが、そればかりではなく、尹東柱の背景を知るために徹底的に足で歩いて調べあげた情熱にも打たれる。留学先の東京、京都、福岡刑務所とその足跡をたどり、八十代の元特高刑事とも会い、あたうかぎりの努力をして、ついに獄死の真相を突きとめられないことを記している。残念ではあるが、その実証精神にはむしろ信頼がおける。動かぬ証拠で、いずれの日にかは明瞭になってほしいところである。
 伊吹郷氏にお目にかかった折、調査の過程での日本検察関係の壁の厚さというものをつぶさに聞くことができた。四十年前のことである。なぜそんなに秘密主義、隠蔽主義なのだろうか。日本人であれ韓国人であれ真摯な研究者に対しては、もっと資料を公開すべきではないか。

 そしてまた、尹東柱のかつての下宿先やゆかりの地など訪ねて証言を求めようとしても、だれ一人彼を覚えている日本人もいなかったという。写真を見ると、実に清潔な美青年であり、けっして淡い印象ではない。ありふれてもいない。実のところ私が尹東柱の詩を読みはじめたきっかけは彼の写真であった。こんなりりしい青年がどんな詩を書いているのだろうという興味、いわばまことに不純な動機だった。大学生らしい知的な雰囲気、それこそ汚れ一点だにとどめていない若い顔、私が子供のころ仰ぎみた大学生とはこういう人々が多かったなあというあるなつかしみの感情。印象はきわめて鮮烈である。それなのに日本人のだれの記憶にもとどまっていなかった。英文学演習八十五点、東洋哲学史八十点とその成績も優秀なのに、教授の印象にもとどまらなかったのだろうか。魯迅における藤野先生のような存在も一人だになかったのだ。尹東柱の深い孤独をおもわざるを得ない。

たやすく書かれた詩

窓辺に夜の雨がささやき
六畳部屋は他人の国、

詩人とは悲しい天命と知りつつも
一行の詩を書きとめてみるか、

汗の匂いと愛の香りふくよかに漂う
送られてきた学費封筒を受けとり

大学ノートを小脇に
老教授の講義を聴きに行く。

かえりみれば 幼友達を
ひとり、ふたり、とみな失い

わたしはなにを願い
ただひとり思いしずむのか?

人生は生きがたいものなのに
詩がこう たやすく書けるのは
恥ずかしいことだ。

六畳部屋は他人の国
窓辺に夜の雨がささやいているが、
灯火をつけて 暗闇をすこし追いやり、
時代のように 訪れる朝を待つ最後のわたし、

わたしはわたしに小さな手をさしのべ
涙と慰めで握る最初の握手。

 尹東柱が抵抗詩人か否か、韓国でもいろいろ論議されているが、朝鮮語弾圧の当時、敢然とハングルで書いたこれらの詩は、手紙と一緒に送られた友人が、甕に入れ地下深く隠して保存したため残ったという。それらを全部集めても百余編、日本の官憲に押収された詩は、あと行方知れず。そのころ、ハングルで詩を書くことじたいが大変な抵抗であったと言える。あと半年生きのびたら、戦後の故国で第一線の活動をすぐさま開始できた人だったろう。生前は一冊の詩集もなく、無名の青年だった。

 一九八四年秋、日本で尹東柱の実弟、尹一柱氏にお目にかかることができた。一柱さんは建築学者で、成均館大学教授でもあるのだが、たまたま東大生産技術研究所の客員教授として来日されていた。尹東柱の詩に「弟の印象画」というのがあり、彼の詩の中でもっとも好きな一編であったから、その弟さんに実際お会いできたことに感慨ひとしおであった。

弟の印象画

あかい額に冷たい月光がにじみ
弟の顔は悲しい絵だ。

歩みをとめて
そっと小さな手を握り
「大きくなったらなんになる」
「人になるの」
弟の哀しい、まことに哀しい答えだ。

握った手を静かに放し
弟の顔をまた覗いて見る。

冷たい月光があかい額に射して
弟の顔は哀しい絵だ。

 十歳違いの幼い弟の、手の感触まで伝わってくるようだ。「人になるの」は「人間になるの」とも訳せるが、いずれにしても兄貴の意表をついた答えで、それが一編の詩を成立せしめたといえる。犬も犬たらんとし、猫も猫たらんとするのだろうか? 人は生まれた時は動物にすぎないが、長い間かかっておそらくは死ぬ寸前まで人間たらんとする志向を持続するふしぎないきものだ。尹東柱もそういう志向の強い人だったからこそ、幼い弟の「人になるの」という返事に打たれ、反応したのだろう。しかも、この弟が成長するころ、今のままの母国では正当な人間にもなれないのではないか、という暗澹たる思いが、「弟の顔は哀しい絵だ」という行になって噴き出しているような気がする。
 幼いころのあどけない予言のごとく、弟の一柱さんは、今、五十八歳ぐらいか、まさしくりっぱな「人になって」その時の兄との問答は、かすかにかすかに覚えていると言われる。篤実で陰翳深いお人柄、そこはかとない茶目っ気もあり、「私はなんだか兄の後始末をするために生まれてきたようで…。」 ほほえみながら言われたが、確かに散逸したまま残された詩稿を、今日見るように整然と跡づけ、詩集としてまとめられたのも弟さんだし、延世大学にある尹東柱詩碑の設計をされたのも一柱さんである。専門の仕事を進めるかたわら、どれだけ多くの時間と労力を兄上のために使われたことか。
 その時、夫人とお嬢さんも御一緒だったが、「この子は伯父(尹東柱)を大変誇りに思っております。」と夫人は言われ、その大学生のお嬢さんは、はにかみながら澄んだ声で「星をかぞえる夜」一編を朗読してくださった。一柱さんは淡々と言われた。「このごろ、父のことをよく思うのですよ、どんな思いで兄の骨を抱いて、福岡から釜山、それから汽車にゆられて北間島(旧満州)の家まで戻っていったのかと…。」 朝鮮半島の端から端までの長い道のり、当時はいったいどれぐらいの時間がかかったものだろう。遺骨を抱いて、忿懣やるかたない父君(死亡)の、当時の心情をおもいやる息子の言葉は、どんな烈しい弾劾よりも、ぐさりとこちらの胸を刺した。尋常ではない息子の死は、親にとっては、はっきりと虐殺と受けとめられていたはずである。なんでもない世間ばなしのように言われた一柱さんの言葉が、こんなにも強くまっすぐにこちらの心に届くとは…。伝達のメカニズムということにも思いを至さないわけにはいかなかった。

 数年前、私は船で下関から釜山まで、玄海灘を渡ったことがある。夕方出航し、だんだんに九州も遠ざかり、海のいろも藍壺のように濃くなり、六千トンの船も一枚の木の葉のようにたよりなく、よるべなく、大きなうねりに身を任せていた。荒れると聞いていた玄海灘も、その日はおだやかで、刻々変わる海のいろ、夕日、漆黒の闇、またたきはじめ、やがて満天にきらめき出す初秋の星座、島の灯かと見まがういかつり船、それらに目を凝らしつつ私は深夜まで甲板を離れることができなかった。晴夜であったにもかかわらず、私のまわりを濃霧のようなものが取りかこんでいた。空気が濃密と言ったほうが当たっていただろうか。なんともいえない哀しみの気。ぞっとするようなものではなく、さりとてさわやかでもない霊気。あえて言えば歴史の悲愁とでも名づけたいような何か。古代からもっとも早くひらけた海の道、数知れぬひとびとの往還、あまたの思い、波の上にも波の下にも濃く漂う目には見えない何か。ふだんけっして霊感の強いほうではないので、この時の異様な感覚はあとあとまで残った。今にして思えば尹東柱のおもいも、遺骨を抱いて帰った父君のおもいもあのなかに混じっていたのだ。あとで知ったことだが、骨壺に入りきらなかった尹東柱の骨灰を、父君は玄海灘にまきちらしたという。

 弟の一柱さんと話していると、そのお人柄にどんどんひきつけられていった。私の脳裡に「人間の質」という言葉がゆらめき出て、ぴたりと止まった。あまり意識してこなかったけれど、思えば若いころからずっと「人間の質とは何か? どのように決定されるのか?」ということを折々にずいぶん長く考えつづけてきた、見つづけてきた、という覚醒が不意にきた。ふしぎな体験だった。それも尹一柱さんというすばらしい「人間の質」に触れ得て、照らしだされてきたことで、いきおい兄である尹東柱もまた、こういう人ではなかったか? と想像された。もの静かで、あたたかく、底知れぬ深さを感じさせる人格。だが三年間近くの日本留学生時代、伊吹郷氏の丹念な調査にもかかわらず、だれ一人、彼を記憶していないということは…なんとも言えない情けなさである。
 ともあれ尹東柱・一柱兄弟に出会えたことは、最近の私の大きな喜びである。

by sabasaba13 | 2014-05-10 08:04 | 京都 | Comments(0)
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