京都錦秋編(15):霊山護国神社(12.12)

 そして霊山護国神社に着きました。1868年6月、維新を目前にして倒れた志士たちを祀るため、明治天皇の命によって創建された神社だそうです。祭神は"護国の英霊"約七万三千柱。なるほど境内のいたるところに、軍人や部隊の顕彰碑が櫛比しています。
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 今回のお目当ては、「パール博士顕彰碑」の見学です。「大東亜戦争」を記念してつくられたという「昭和の杜」に行くと、パール博士の肖像写真をとりまくような大きな石碑がありました。碑文を転記しましょう。
 当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、1946年、東京に於いて開廷された「極東国際軍事裁判」にインド代表判事として着任致しました。既に世界的な国際法学者であったパール博士は、法の真理と、研鑽探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を判決されたのであります。
 今やこの判決は世界の国際法学会の輿論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております。パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍されましたが、日本にも度々来訪されて日本国民を激励されました。
 インド独立後十年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念する年にあたり、私共日本国民は有志相携え、茲に、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界の平和を希われた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります。

一九九七年十一月二十日
パール博士顕彰碑建立委員会
 そして極東国際軍事裁判におけるパール判事の勧告文の一節が刻まれています。
 時が熱狂と偏見をやわらげた暁には また理性が虚偽からその假面をはぎとった暁には その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう
 注目すべきなのはこの碑文の揮毫、および建立委員会委員長が故瀬島龍三であることです。隠岐編で述べたことを再言します。ウィキペディアに準拠して彼の履歴を簡単に紹介しますと、瀬島龍三(1911- 2007)、大日本帝国陸軍の軍人、日本の実業家。陸軍士官学校第44期次席、陸軍大学校第51期首席。大本営作戦参謀などを歴任し、最終階級は陸軍中佐。戦後は伊藤忠商事会長。詳細については、『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(共同通信社社会部編 新潮文庫)を是非読んでいただきたいのですが、巻末の船戸与一氏の秀逸な解説をもとに彼という存在について紹介したいと思います。抜群の成績で陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業して参謀本部に入り、作戦参謀としてマレー作戦、フィリピン作戦、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作戦、菊水作戦、決号作戦、対ソ防衛戦を指導しました。言わば軍事テクノクラートとして軍の中枢に君臨し、事実上、大本営命令によって陸軍を動かした人物だったのですね。後輩参謀の田中耕二は「このころ対米戦のあらゆる情報が瀬島さんの元に集まっていた。瀬島さんが起案した作戦命令には、上司もうかつに手を入れられない雰囲気があった。僕らには彼の発言は天の声のように思えた」と証言しています(p.128)。また元参謀の山本筑郎が、瀬島に大本営命令の書き方を尋ねると「瀬島さんは『大本営命令は第一項に敵情を書かず、ずばり天皇の決心を書く。天皇は敵情などで決心を左右されないからだ』と言った。なるほど大本営参謀は作戦命令を起案することで天皇と同格になり、強大な権限を持つんだと納得したよ」と回想しています(p.129)。その後関東軍参謀として敗戦を迎え、シベリアに連行され、十一年間の抑留生活を送ります。帰国後、元陸軍中将・本郷義夫の紹介によって伊藤忠商事に入社、参謀時代の人脈をフルに活用して、インドネシア賠償ビジネス、日韓条約ビジネス、二次防バッジ・システム・ビジネスを成功させ、それにともない田中角栄や中曽根康弘といった大物政治家との繋がりを深めていきます。そして伊藤忠商事会長になりビジネスマンとしての階段を駆け昇るとともに、政界フィクサーとしても底知れない力を貯えていきます。1995年、軍事史学会の特別講師として招かれた彼は、自衛官の前で次のように語ります。「日本は、少なくとも対英米戦争は自存自衛のために立ちあがった。大東亜戦争を侵略戦争とする議論には絶対に同意できません」 享年九十五歳。
 船戸氏はこう述べておられます。「アジア諸国の二千万の死。日本人三百万の死。これについて瀬島龍三の真摯な発言は聞かれない。要するに、この膨大な死者については彼のこころに触れることがないのだろう。したがって責任の問題は脳裏に浮上して来ることもない。徹底したプラグマチストにとって数字はただの数字なのだ。それは次のステップのための予備知識に過ぎないだろう」(p.434) よって彼にとって、被告全員を無罪としたパール判事は、「アジア・太平洋戦争に関して日本に罪は無い」という持論を補強してくれた方として感謝すべき対象なのでしょう。そういえば、市ヶ谷の防衛省にある旧士官学校大講堂(東京裁判の法廷) を見学した時にも、パール判決書がガラスケース内に展示されていましたっけ。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-05-20 06:16 | 京都 | Comments(0)
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