越後編(6):相川金山(13.3)

 尖閣湾から十分ほど走ると、佐渡相川金山に到着です。まずはその歴史について見ておきましょう。江戸時代、佐渡金山は徳川幕府直轄の「天領」となり、その豊富な産金量は300年にわたる幕府の存続を支えました。金銀山の景気にわく佐渡を目指して、全国各地から鉱山技術者や商人、労働者たちが集まり、それまで百姓の寒村だった島に突如人口5万人とも言われる大都市「相川」が誕生します。江戸と直結していた佐渡には、当時最先端の知識や技術がもたらされ、全国各地から集まった人々は地域色豊かな文化を佐渡に根付かせました。開山から約100年で坑道の深さが海水面にまで達した金山は、坑内の湧水に悩まされるようになりました。江戸時代の坑道は、水没による放棄と排水技術の向上による再開発の繰り返しで、「水とのたたかい」だったとされています。
 明治に入ると、新政府は1869(明治2)年、他鉱山に先駆けて佐渡鉱山の官営化を決め、西洋人技術者を招いて近代化に着手します。さらに1885(明治18)年には、当時の鉱業界の第一人者、大島高任を初代佐渡鉱山局長に迎え、更なる近代化と拡張が図られました。この過程では国内初の西欧技術が数多く佐渡鉱山で実地に使われ、近代化の模範鉱山となりました。
 1896(明治29)年、それまで皇室財産だった佐渡鉱山は三菱合資会社に払い下げになり、民営化されました。昭和に入り、国策によって金の大増産が始まると、佐渡には東洋一の浮遊選鉱場が建設され、中心的役割を担いました。そして1989(平成元)年、鉱量の枯渇によって採掘中止に至ります。おしまい。

 まずは北沢地区です。相川郷土博物館は、元御料局佐渡支庁の建物を利用したもの。コンクリート製の巨大な建造物が目に飛び込んできましたが、浮遊選鉱場・精錬所跡です。坂道をのぼっていくと、大きな円形プール状の施設が見えました。これはシックナーで、精錬過程で鉱石と泥を分離するための施設だそうです。近くには佐渡奉行所が復元されていましたが、鉱石精錬体験施設となっています。
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 そして間ノ山地区へ。宗太夫坑は、江戸時代初期から開発された富鉱の一つ「青盤脈」の採掘跡。中に入って坑道を見学できますが(有料)、時間がないのでカット。大きな鉄製やぐらがありましたが、ここが大立竪坑。1875(明治8)年にドイツ人技術者を招いて開削した日本初の西洋式立坑(垂直坑道)で、最終深度は352mです。佐渡金山の鉱脈群のほぼ中央に位置し、採掘中止まで大動脈として活躍しました。現在の鉄製やぐらは、1938(昭和13)年の日中戦争に伴う金の大増産期に建設されたものだそうです。このあたりから、大きく抉られた山頂が見えますが、道遊の割戸(どういうのわれと)という、佐渡金山発見の端緒となった大鉱脈の露頭掘跡です。主要鉱脈が地表に露出した部分を鏨(たがね)と槌で掘り割ったもので、割戸の幅は約30m、深さは約74mにも達するそうです。垂直に近い絶壁を成すこのような採掘跡は世界的にも例がなく、国の史跡に指定されています。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-04 06:33 | 中部 | Comments(0)
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