越後編(8):八珍柿(13.3)

 その先には、柿の木がたくさん植えてありましたが、これが八珍柿あるいはおけさ柿と言われるタネなし柿ですね。
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 かつて佐渡で最大の産業は味噌でしたが、今ではこの柿が主力となっているそうです。実は、この栽培には宮本常一が深く関わっています。『宮本常一が見た日本』(佐野眞一 ちくま文庫)から引用します。長文ですが、宮本の人となりがよくわかる一文です。
 羽茂地区で柿の生産がはじまったのは古く、戦前のことだった。杉田清氏という農業技術員がこの運動を熱心に進めたが、戦時中のブランクもあって、なかなか根づかなかった。宮本がその杉田氏に会ったのは昭和37(1962)年のことだった。杉田氏による八珍柿の普及活動を綴った『おけさ柿物語』(羽茂町発行)に、このときの宮本の感想が書きとめられている。
 〈羽茂へは昭和37年にはじめてきて、二度続けて講演をした。はじめは公民館、二度目は杉田さん主催で、このときの方が大勢で熱心であった。これだけの、目をかがやかして聞き入る人びとを集め得る杉田さんを、これはえらいと思った。これはえらい仕事のできる人だと思った〉
 宮本は自分より三つ年上の杉田氏にたちまち共感し、これ以後、八珍柿栽培を奨励する強力なアジテーターとなった。宮本は身を粉にして働く篤農家や熱心に村々を説き回る農業技術指導員を、自分のこれまでの生き方に重ねあわせるようにして、誰よりも尊敬した。羽茂や小木の各集落で開かれる集まりに宮本はほとんど顔を出し、夜明けまで話しこむことも珍しくなかった。杉田氏の部下として働き、昭和37年から44年まで農業改良普及センター羽茂支部長として、その集まりに宮本と一緒によく同席した経験をもつ信田敬氏は、誰の意見にもニコニコと耳を傾ける宮本のやさしい一面と、平気で村人を怒鳴りつける宮本の恐ろしい一面の両方をみている。
 「宮本先生のお話のなかで特に印象に残っているのは、昔の繭生産農家は新聞を開いて一番最初にみるのはロンドンやニューヨークの絹糸相場でした、皆様方はどこを最初にみますか、という質問でした。これにはみな打ちのめされました。
 宮本先生は聴衆の反応をみながら話される方でした。最初は文化論的なお話しで、聴衆がそれに乗ってこないとわかると、その村の恥部にかかわる、たとえば堕胎、間引きの話をはじめてショックを与える。その呼吸のうまさはヒットラーなみでした。私も体がふるえてくるような興奮を何度も経験しました。集会はいつもたいへんな熱気でした」 (p.193~4)

by sabasaba13 | 2014-06-06 06:31 | 中部 | Comments(0)
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