越後編(11):小木(13.3)

 余談ですが、宮本常一が佐渡に残した大きな足跡はこの小木民俗博物館、前述の八珍柿ともう二つがあります。とてもいい話ですので、『宮本常一が見た日本』(佐野眞一 ちくま文庫)を要約して紹介します。
 まずは鬼太鼓(おんでこ)座です。早稲田大学を血のメーデー事件で放校された田耕(本名:田尻耕三)が、渋沢敬三邸に居候していた宮本常一を訪ねたのが1956(昭和31)年のこと。彼の書『海に生きる人びと』を読み、日本にも昔から民主主義があるということをやさしい言葉で教えられたためでした。宮本の影響で全国の離島を無銭旅行した田が、佐渡で出会ったのが、古くから伝わる和太鼓芸能・鬼太鼓でした。十年後、宮本のもとに田から、「鬼太鼓座という若者芸能集団をつくり、伝統芸能の復活を通して佐渡の若者たちに自信を回復させたい」という電話がかかってきました。以後、宮本は佐渡に行くたびに彼らを励まして回ったそうです。創設当時のメンバー大井良明は、宮本からもらった手紙を額装して大事に保存しています。"動揺する世の中に、一番大切なものは、永遠に信じ守りぬける何ものかです。私はひたすらそれを念じて生きて来ました"
 もう一つは仕事着の裂織(さきおり)技術の復興と伝承です。裂織とは、古くなった布を細かく裂いて麻糸などと共に織り上げた再生衣料のことですね。その研究者・伝承者である柳平則子が、裂織に目を開くきっかけをつくってくれ、また彼女を力強く支えたのが宮本常一でした。島の人と結婚して、佐渡に住み着くという手紙を出すと、宮本から次のような返事が来たそうです。"ゴミになるな、佐渡の土になれ"
 次は矢島・経島へ、二つの島が一つに繋がっている景勝地です。矢島は良質の矢竹を産したところで、源頼政がヌエ退治に使った矢もここのものと言われているそうです。経島は1274(文永11)年日蓮の放免状を携えた高弟の日朗が途中嵐にあい、ここに漂着し読経して一夜を明かしたことからその名がつけられました。有名なたらい舟の乗船体験もこちらでできます。このあたりの海の透明度はなかなかのものでした。
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 そして小木へ。『私の日本地図⑦ 佐渡』(未来社)によると、相川金山への入口として発展した港町で、その金は小木から出雲崎へ、そして江戸へと陸送されたそうです。さらに1671(寛文11)年に河村瑞賢によって日本海の西廻航路が開かれると、小木はそれらの船の寄港地となって五軒の問屋がおかれ、島内の産物もここから輸出されるものが多くなりました。しかし明治三十年を過ぎると、帆船の寄港がめっきりと減り町はさびれてしまうことになります。木造の町屋が建ち並ぶ町並みもどこか寂しそう。木造二階建の古い建物があったので写真撮影。古い郵便局をハンティングしてきたので、それらしい物件には鼻がきくようになりましたが、たぶんこれはそうでしょう。帰郷後にインターネットで調べたら、ビンゴ、旧小木郵便局でした。あるお宅の軒先には「中国に教えちゃあかん尖閣湾」「日の丸を掲げています尖閣湾」という貼り紙がありました。意味不明ですが、ろくでもない日本政府とろくでもない中国政府にふりまわされて、日中民衆の友好が損なわれているのは残念です。
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 ここでのお目当ては喜八屋旅館旧館。前身を和泉屋といい、小木港開港時の廻船問屋五人衆の一人でした。1905(明治38)年に竣工された木造2階建の旅館ですが、1928(昭和3)年に3階が付け足され、木造五階建てとなります。そのなんともアンバランスな武骨さは、まるでハウルの動く城のよう。なお吉井勇、石井柏亭、与謝野晶子、河東碧梧桐といったお歴々も宿をとったそうです。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-09 18:46 | 中部 | Comments(0)
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