越後編(13):両津(13.3)

 そしてタクシーは両津の町に到着、北一輝の生家の前でおろしてもらい、写真を撮影。さらに若宮神社でもおろしてもらい、北一輝と北昤吉兄弟の顕彰碑を撮影しました。なおこの碑に関しては、前述の『北一輝』(渡辺京二 ちくま学芸文庫)に詳しい紹介がありますので、長文ですが引用します。
 昭和44年に建てられたもので、表に一輝と昤吉のレリーフがはめこまれ、裏には安岡正篤による碑文が刻まれている。碑文の内容についても、お世辞にも似ているとはいえないレリーフについても、私は刺すような悲哀を感じた。だが、それはいうまい。この碑は国が建てたものでも、両津市が建てたものでもない。彰徳碑保存会と称するささやかな地元の有志たちが発意し、苦労して金を集めて建てたものである。そしてこれは、そのような善意にふさわしく、厭味なところのない、あえていえばつつましい記念碑なのである。しかし、秘かな北の敬慕者のひとりである私には、一輝が昤吉とならんで記念され顕彰されている事実がたえがたかった。両津、あるいは佐渡との一輝の関係は、結局こういうものでしかありえないのだ。むろん、故郷とそむきあうのはあらゆる思想家の運命であるだろう。だが、一輝が昤吉と名をならべてのみ建碑の対象となりえたということほど、佐渡と一輝の関係を露骨に示す事実はないように思えた。
 周知のように昤吉は一輝のすぐ下の弟であり、早大教授を経て衆議院議員となり、戦後は自民党の長老的存在として、外交調査会長などをつとめた。佐渡人にとって、一輝などよりはるかにまっとうな成功者であることはいうまでもない。しかし昤吉は兄の思想上の同志でなかったことはもちろん、その思想の理解者ですらなかった。彼は若き日に兄の危険な本質を直覚して、それから遠ざかろうと努めることで賢明に自分の一生を確保した人である。西田税の妻初子によれば、一輝は昤吉のことを俗物と呼んでいた。「わしの弟で昤吉というばかがおる」というのは一輝の口癖であったという。むろんこれは一種の親愛を示す表現だとしても、兄から遠ざかっておのれを保とうとするこの弟のことを、彼がつねに揶揄するような思いで見ていたことはこの一語からも読みとれる。むろんこの二人は、蘇峰・蘆花兄弟のように骨肉あい喰む関係ではなかった。しかし昤吉が、大正14年から一輝が二・二六事件によって捕われる昭和11年にいたる十二年間、一度も兄の家の敷居をまたがなかったのは、一個の厳然たる事実である。兄の刑死の前後から、彼はにわかに骨肉の情につき動かされ始めたとみえ、兄の救助に努めもし、また兄を雪冤するていの文章を書きもした。しかしこの弟が兄をなつかしみいとおしむ気持になれたのは、その兄がもはや世になければこそであったのである。(p.16~7)
 そして今夜の塒、天の川荘でおろしてもらい本日の旅程はこれで終了。運転手さんに丁重にお礼を言い、料金を支払ってお別れしました。チェックインをして部屋に荷物を置き、すぐ近くにある両津カトリック教会に行ってみました。白亜の清楚な教会で、解説板によるとフランス人宣教師ドルワールによって1879(明治12)年に創設されましたが火事で焼失、1887(明治20)年にド・ノアイ神父によって再建されたものです。設計は、多くの教会建築を手がけたパピノ神父によるもの。それでは宿ちかくをぶらついて夕食をいただくお店を物色することにしましょう。「しらつゆ」という日本料理屋に入ったら満席、「源八」という洋食屋があったので、こちらでメンチカツ定食をいただきました。本当は海産物系の食事がしたかったのですが、思ったよりも料理店が少なく妥協してしまいました。そして宿へと戻りシャワーを浴び、さきほど購入した佐渡の地酒「北雪」を呑みながら、フェリーのターミナルでいただいた観光パンフレットを拝読。
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 おっ「長岡系ショウガ醤油」「燕三条系背脂」「巻系割りスープ付き味噌」「新潟系あっさり醤油」という「新潟四大ラーメン」があるそうな。すべてとはいかないでしょうが、一つくらい食してみたいものです。さあ明日は新潟に戻り、市内観光と洒落込みましょう。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-11 06:39 | 中部 | Comments(0)
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