越後編(20):安吾風の館(13.3)

 そして旧市長公舎を再活用した「安吾 風の館」へ。坂口家から寄贈された、新潟市出身の作家坂口安吾の遺品・所蔵資料を展示する施設です。
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 残念ながら展示替えのために、遺品等を拝見することはできませんでした。せめてここを訪れた記念にと、紙くずで埋めつくされた部屋でこちらをきっと見据える安吾を撮影した、大好きな写真をカメラにおさめました。解説によると、撮影したのは林忠彦、「小説新潮」(昭和23年1月号)に「二年ほど掃除をしていない書斎の写真」として掲載されたそうです。それでは、スーパーニッポニカ(小学館)から、彼の生涯についての紹介を引用します。
 坂口安吾(1906―55) 小説家。明治39年10月20日、新潟市生まれ。坂口家は旧家で大地主。放任主義の父、母にもなじめなかった安吾は、幼稚園、小学校、中学とはみだしが多く、まともに通学しなかった。「家」に反逆し孤立した彼を癒してくれたのは、故郷の海と空と風であった。1922年(大正11)県立新潟中学を退学して、東京の豊山中学3年に編入学。中学卒業後代用教員となったが、26年東洋大学印度哲学科に入学。一念発起、寸暇を惜しんで哲学宗教書、梵語、パーリ語、フランス語などを勉強し習得した。28年(昭和3)アテネ・フランセに入学。30年東洋大学卒業。同人誌『言葉』を創刊。31年、処女作『木枯の酒倉から』『ふるさとに寄する讃歌』を発表。32年、新進美貌の女流作家矢田津世子と激しいプラトニック・ラブに陥って苦しみ、京都に転住。38年帰京。太平洋戦争下に大胆破格な評論『日本文化私観』(1943)を発表。
 戦後は混迷錯乱状況のなかで、人間の本質を洞察した『堕落論』(1946)を、その実践として『白痴』(1946)を発表した。これらの文学活動は、戦後の虚脱状態にあった日本人に一大衝撃を与えた。石川淳などといっしょに新戯作派ないし無頼派とよばれ、敗戦当初の文壇の旗手として脚光を浴びた。その後、一躍流行作家となり、1947年(昭和22)名作『桜の森の満開の下』を発表。梶(かじ)三千代と結婚、その反映が『青鬼の褌を洗ふ女』(1947)となる。49年、睡眠薬と覚醒剤による中毒症状が狂暴錯乱の行動をもたらした。50年、『安吾巷談』で世相を切り続け、国税庁や自転車振興会を相手に抗議文を書き注目を集めた。脳出血により昭和30年2月17日急逝。享年50。

by sabasaba13 | 2014-06-21 08:53 | 中部 | Comments(0)
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