越後編(22):坂口安吾記念碑(13.3)

 近くにあった砂丘館は、旧日本銀行新潟支店長役宅であった近代和風住宅でギャラリーとしても利用されています。なお戦前の日銀支店長役宅で残っているのはこちらと福島だけだそうです。會津八一記念館の前には、"於りたては なつなほあさき しほ可せの すそふきかへす ふるさとのはま"という歌碑がありました。1945(昭和20)年4月、東京への空襲で被災した八一が傷心を抱いて帰郷し、故郷に無事着いたことの安堵感を歌ったものという解説がありました。そして護国神社へ、まずは戊辰役殉難墓苑を掃苔。強い潮風でかしいだ松林の中に、小さな墓石がならんでいました。
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 解説板によると、1868(明治元)年1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いの後、薩長を主力とする西軍は4月に柏崎・小千谷を占領、7月には長岡を攻略しました。一方、同月に海路より松ヶ崎に上陸した西軍は新潟を戦場として、東軍(米沢・会津・庄内)と激戦をくりひろげました。その時の西軍戦死者と、他の場所で見つかった東軍戦死者を一緒に埋葬したのがこの墓苑です。『幕末維新変革史 下』(宮地正人 岩波書店)によると、越後口は東北戦争で最も激戦が展開する地域となりました。会津藩にとって新潟港は必要物資の主要な移入口であり、また越後の地に広大な預り地を有しており、同藩は全力をもって防戦態勢を敷きました。他方米沢藩にとって越後は故地であり、その回復を同藩は狙っていたのですね。(p.197) その越後戦線の転機は、黒田清隆に率いられた増援軍が、新発田藩の帰順に助けられ、新潟の北に位置する松ヶ崎・大夫浜に全軍無事上陸したことによると指摘されています。(p.198)
 解説板には"こゝは東西両軍区別なく、いづれも國に殉じた尊い御霊として祭祀する霊苑であります"と記されていましたが、住井すゑの『橋のない川』にあった言葉をふと思い出しました。(第二巻 p.161)
 戦争で一番阿呆を見るのは、何んというても戦死者です。ところが、戦死を阿保やと思わせないように、上の人はふだんからいろいろ工夫します。
 となりにある西海岸公園には、「ふるさとは語ることなし」と刻まれた坂口安吾の記念碑があります。裏には尾崎士郎の揮毫で「坂口安吾が少年の日の夢をうづめたこの丘に彼を紀念するための碑を建てる」とありました。解説板によると、少年時代の安吾は手のつけられないあばれん坊で、旧制新潟中学校時代もほとんど授業に出席せず、毎日砂浜で空を眺めていたそうです。風に抗うように傾く武骨な巨岩が、その姿を彷彿とさせてくれます。その近くには北原白秋のつくった童謡「砂山」の歌詞を刻んだ「砂山の碑」がありました。1922(大正11)年に新潟市で開かれた童謡音楽会に招待された白秋は、子どもたちの歓迎を受けた後、夕刻にここ寄居浜を訪れたと言います。暮れかかる日本海、砂浜、松林という新潟海岸の情景は、柳川に生まれ育った彼に大きな感銘を与え、小田原に帰ったのちこれを詩にして新潟の子どもたちに贈ったのがこの「砂山」でした。なお曲をつけたのは中山晋平と山田耕筰、ふたつとも歌い継がれているのは珍しいですね。ちなみに私は前者の曲の方が好きです。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-23 06:31 | 中部 | Comments(0)
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