越後編(23):川村修就像(13.3)

 公園の西側に行くと、ここにも會津八一の歌碑がありました。"みゆきつむ まつのはやしを つたひきて まどにさやけき やまがらのこゑ" 1946(昭和21)年、彼が先述の北方文化博物館新潟分館に住んでいた時に詠んだ歌です。川村修就という武士の銅像があったのですが、寡聞にして何をされた方なのか存じません。
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 碑文を転記しましょう。
 川村修就は、新潟が長岡領から幕府領になった天保十四年(1843)、初代新潟奉行として着任した。在任九年の間海防に努め、砂防、消防、物価の安定など、庶民生活の向上に力を尽くした。

うつし植えし
   二葉の末に秋の月
梢のかげは
   だれか仰がん

 この歌は天保十五年八月十五日、初めての松苗の植え付けが終わった夜、その感慨を詠んだものである。
 へえー、庶民のために尽力した幕府の能吏だったのですね。これは特段の根拠はないのですが、今の官僚諸氏よりも江戸時代の役人の方が責任感や倫理感に飛んでいたような印象を持っています。ま、下手をうったら切腹という事情もあったのかもしれませんが。電力会社とつるんで原子力(核)発電所を雨後の筍の如く乱立させあげくのはてに深刻な事故を引き起こし福島の人々に塗炭の苦しむを与えてながらも蛙の面に小便反省の気配が見えない官僚の方々など、洛中引き廻しの上獄門晒し首に処したいぐらいですね。「政府が人民を恐れるときには自由がある。人民が政府を恐れるときには専制がある」というトーマス・ジェファーソンの言葉がありますが、江戸幕府は意外と人民を恐れていたのかもしれません。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-24 06:31 | 中部 | Comments(0)
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