越後編(32):木崎村小作争議(13.3)

 もうひとつ感じたこと。この木崎争議を含めて戦前の小作争議は、小作農民側の完全な敗北にほぼ終わったのですが、それではいったい何が残ったのでしょう。前掲の『労働者と農民』(日本の歴史29 小学館)の中に、木崎争議を闘った老農・川崎久作の言葉がありました。「木崎争議の闘いがなかったならば、マッカーサーの農地改革もなかった」(p.280) また同書で、中村政則氏はこう述べられています。
 戦前の小作争議は、そのほとんどが絶対主義的天皇制による凶暴な弾圧によってつぶされている。完全勝利をかちとった争議は皆無といってよい。(中略) だが、敗北それ自体が悲惨なのではない。もっとも悲惨なのは、弾圧され、敗北したあと、運動参加者がみずからの闘いの正しさを確信しえず、倫理的敗北感なり、屈辱感にさいなまれているばあいである。闘いの歴史を語ろうともせず、身をかくすようにひっそりと世を送り、罪悪感におちいらねばならないような闘いこそもっとも不幸である。
 ときの権力は、自由民権家や米騒動参加者にたいしてはもちろん、労働運動家や農民運動家にたいして、暴徒・暴民・不逞の輩・非国民・国賊・「アカ」など、ありとあらゆる侮蔑的なことばを投げつけ、かれらを世論から切りはなし、孤立させようとしてきた。そして、かれらを暗い過去をもつ人間として封鎖し、身動きできないようにすることを常套手段としてきた。そのようなとき、自分がとった行動や思想に確信をもちえないでいることほど悲惨なことはない。だが、さきの農民運動の指導者たちは、たとえ弾圧され、敗北したにしても、自己の闘いの正しさ、倫理的優越性を確信している。むしろ、ほこりにさえ思っている。そこに救いがあり、希望がある。民衆の闘いとはそういうものでなければならないし、事実、戦前の農民運動はそのような歴史的意義をりっぱにになうものであった。(p.280~1)
 たとえ勝ち目がなくとも行動し闘うこと、その正しさと倫理的優越さを確信すること、そこに末来への希望がある。私たちが戦前の小作争議から受け取るべきメッセージは、そういうことではないでしょうか。金時鐘氏が言っていたように、私たちが負けつづける限り、権力はいつまでも勝っていなければなりません。強者には一度の負けが決定的ですが、弱者には負けることを止めたときが敗退なのですね。
 そして昨今の状況。安倍伍長の政策がフルスロットルで稼働しています。消費税の引上げ、集団的自衛権の容認、TPP交渉成立への意欲、派遣法の改悪、核(原子力)発電の推進、愛国心の強要、教育委員会の骨抜き、沖縄米軍基地の現状維持、福島における放射能汚染への無策。ほんのすこし調べてほんのすこし考えれば、その意図が見えてきます。大企業とアメリカのために私たちの膏血を絞りとること、そしてそれに疑問を持たず批判をしないように誘導すること。ヘンリー・デイヴィッド・ソロー曰く「この政府は魔術によって一個の人間を単なる人間の影法師か抜け殻のようにつくり変え、生きながらにして、立ったまま棺桶に入れようとしている」(『市民の反抗』p.13 岩波文庫) それに対して、今の日本社会を囲繞している雰囲気は、無気力、諦め、気やすめ。『橋のない川』(住井すゑ 新潮社)に下記のような言葉がありましたが、社会の空気も戦前に似てきたような気がします(第四巻 p.55)。
 それにしても、私たちは何んという無気力な存在なのでしょうか。已然には諦めを、未然には気やすめを求めて己を支えて行こうとするのです。それというのは、ある特定の人たちによって支配され、操作されている世の中では、残余の住人―国民といわれる存在―は、生きるためには、どうしても諦めと気やすめを建てまえにするしかないからです。
 とりあえず、さまざまな"怠惰"をひとつひとつ取り除けることから始めましょう。考えない、行動しない、批判しない、傍観する、不正を看過する、他者の痛みを感じない… 政官財報学+アメリカという怪物的機械は、間違いなく私たちの"怠惰"を燃料として稼働しているのですから。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-07-07 06:33 | 中部 | Comments(0)
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