越後編(34):米百俵の群像(13.3)

 朝目覚めてカーテンを開けると、やはり利休鼠の小糠雨。まずは長岡駅前からバスに乗り、県立近代美術館と「米百俵」の碑を拝見しに行きましょう。途中で、アーケードの上に大きな時計のあるレトロなファサードを発見。駅前には「正三尺玉打揚筒」が野外展示してありましたが、そうか、長岡は花火大会で有名なのですね。そういえば、山下清に『長岡の花火』という忘れられない貼り絵がありました。
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 バスに乗って県立近代美術館に着きましたが、周辺にはまだ残雪がところどころで見かけます。厠上本として読み終えた『ニコライの日記 ロシア人宣教師が生きた明治日本』(岩波文庫)の中に、次のような一節がありましたっけ。
 このあたりは人口が稠密である。次々と村が現れる。なかには非常に大きな村もある。
 長岡の手前で大きな川〔信濃川〕が現れた。にごった雪解けの水が勢いよく流れている。
 長岡の町はすっぽり雪につつまれていた。通りの中央に家の高さほどにまで雪が積まれている。そしてところどころに、家の者たちが雪かきをした場所があり、そこはすっかり夏のような光景になっている。といっても、そういう除雪された場所はわずかしかない。
 まるで雪が人間にむかって「みなの衆、わしはあんた方が好きになったから、夏までここにいたいと思うが」と言っているようだ。それに対して人間は「仕方ないさ、あんたの好きなようにするさ、わしらはかまわない」と答えているようだ。(中p.75 1893.4.15)
 消火栓がこんなに背が高いのも宜なるかな。ボテロの彫刻を撮影して、それでは入館しましょう。
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 お目当ては横山操の『炎炎桜島』だったのですが、残念ながら展示されていませんでした。岸田劉生やペヒシュタインの作品をしばし鑑賞。そしてすぐ近くにある『米百俵の群像』へ。解説板を転記します。
 北越戊辰戦争で焦土と化した長岡に、支藩の三根山藩(現在の西蒲原郡巻町峰岡)から見舞いの米が百俵送られてきました。食べるものにもこと欠く長岡藩士たちにとっては、のどから手がでるほど欲しい米でした。しかし時の長岡藩大参事小林虎三郎は「食えないからこそ、教育をするのだ、学校をつくるのだ」と米を売り払い、その代金を国漢学校にそそぎこみました。
 この故事は「目先のことにとらわれず、明日のために行動する」という精神風土を長岡に根づかせ、末来を担う世代を育む思想の源泉となりました。
 群像は「米を分けろ」と迫る人びとに虎三郎が切々と説いている場面です。かたわらの少年は「米百俵の精神」を引き継ぐ新しい世代を象徴しています。
 いい話ですね、ほんと。教育予算を徹底的に削ることしか考えていない、現在の教育行政とはえらい違いです。そして目先の経済成長にとらわれて、労働者を使い捨て、原発を再稼働させようとしている政治家・官僚・財界の皆々様に、ぜひ「米百俵」の精神を持っていただきたいものです。そういえば、小泉純一郎元軍曹が、2001年5月7日の所信表明演説で、「今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか」と言いましたっけ。国民の膏血を絞るための隠れ蓑に過ぎない言辞に、多くの方々がころっと騙されたのは記憶に新しいところです。まことに扱いやすい国民ですね、こうした人間を再生産するのが教育行政の目標なのでしょう。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-07-09 06:34 | 中部 | Comments(0)
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