越後編(35):馬高縄文館(13.3)

 さてここからタクシーを利用することにしましょう。美術館前でタクシーに乗り込み、まずは興国寺にある小林虎三郎の墓参をいたしました。合掌。そして長生へ、連続するトラスが力強いゲルバートラス橋です。橋を一望できるところでおろしてもらい写真撮影。完成は1937 (昭和12)年、途中イタリアのエチオピア侵略によって鋼材の値段が上がり、費用が5割近くも高騰するという困難にも見舞われたそうです。橋を渡るときは、まるで鋼材の森の中を疾走しているような気分。
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 ここから十五分ほどで馬高縄文館に到着です。このあたりは縄文時代の大規模な集落跡で、小さい沢をはさんで東側に中期(約5500年前)の馬高遺跡、西側に後期(約4500年前)の三十稲葉遺跡が発見されました。何といっても縄文時代を代表する土器「火焔土器」が出土したことで、業界ではその名を馳せています。その火焔土器と縄文のムラとくらしを展示しているのが、ここ馬高縄文館です。
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 さっそく入館し、数々の火焔土器を拝見しました。…凄い。
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 言葉を失ってしまったので、故岡本太郎氏に語ってもらいましょう。「激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋回する隆線文、これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感、しかも純粋に透った神経の鋭さ、常々芸術の本質として超自然的激越を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである」(『みずゑ』1952年2月号「縄文土器論」) それにしても何故ここまで凝りに凝った造形としたのか。神への祈りをかたちとしたのか、はたまた中の食物が腐敗しないための意匠なのか、今となっては知る術もありません。ただ松木武彦氏が『列島創世記』(小学館)の中で、興味深い仮説を提起されているので紹介しましょう。
 盛期の縄文土器が華麗で複雑になるのは、当時の日本列島の人びとが世界に冠たる造形感覚をもっていたからでも、生活が豊かで芸術作品を生み出す余裕があったからでもない。恵まれた環境によって人口が密集し、個人どうしや集団相互の関係が濃く複雑になった結果、それが生み出す緊張関係を乗り切るため、お互いの間に社会的なメッセージの網をしげく張り巡らしたゆえだったと、心の科学からは結論づけられる。(p.104~5)
 複雑な文様を相互間のメッセージとして共有することによって、連帯感を高めようとしたわけだ。当否についての判断はできませんが、なるほどあり得ますね。なお発掘した土器の破片も展示されていましたが、すべてに白文字で細かい書き込みがしてありました。復元作業の困難さを想像すると身震いしてきます。考古学者のみなさま、ご苦労様です。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-07-10 06:31 | 中部 | Comments(0)
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