越後編(42):河井継之助記念館(13.3)

 次は河井継之助記念館、建物の前には「河井継之助邸趾の碑」がありました。それでは入館いたしましょう。
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 おっとその前に、彼の事跡について、『日本の歴史24 明治維新』(田中彰 小学館)から引用します。
 北越方面は、長岡藩を中心に河井継之助らの指導する軍と、参謀山県有朋・黒田清隆、あるいは西園寺公望らの新政府軍との戦いであった。当時、河井は長岡藩の家老上席の座にあった。すでに彼は江戸や四国・九州の遊歴ののち、万延元年(1860)三月、備中松山(高梁市)から東帰を決意したとき、義兄梛野(なぎの)嘉兵衛にあてて手紙を書いた。そのなかで彼は天下の形勢は早晩大変動をまぬかれず、「勢と申す者ほど、恐る可き者は之れ無く候」と、歴史の流れの巨大さを見ぬいていた。だから、河井の目には攘夷のおろかさはいうまでもなく、外国との交際も必然だと映っていたのである。彼にとっての急務は、朝廷とか幕府とかにこだわらないで「政道御一新、上下一統、富国強兵」を実現することにあった。いつまでも政治のありかたがかわらないと思いこむ浅慮を戒めていたのだ。それにつけても、朝幕間に、薩長の徒が介入し、その離間を策しているかにみえるのは心外だった。幕府が軽々しい態度をとらないことを彼はねがっていたのである。
 それから八年、時代の激流のなかで42歳の河井は、薩長新政府との対決をせまられた。彼は長岡藩を武装中立の立場におき、新政府との交渉にあたった。戦闘を回避しようとしたのである。このままでは民心を動揺させ、大害を生ずるだけだ、これは一領国、一藩のためにのみいうのではない、日本国中が協和協力し、世界へ恥じることのない強国にしたいのだ-これが河井の主張だった。しかし、小千谷の慈眼寺で彼と相対した新政府軍の23歳の軍監・岩村精一郎はこれに一顧だにあたえなかった。後年、岩村は当時を回想し、若い血気のゆえに、河井もまた尋常一様の門閥の馬鹿家老だと思ってとりあいもせず、会談は決裂におよんだが、にもかかわらず河井がくりかえし嘆願をしたのは、「或は真に戦意なかりしにてもあらんか。去れど当時は、勢之を信ぜざりし」と語っている。
 さて、会談決裂によって戦端はひらかれ、榎峠や長岡城をめぐる攻防がつづいた。一進一退、対峙すること三か月、河井は会津の塩沢村(福島県南会津郡只見町塩沢)で没した。うけた弾傷がもとだった。絶筆となった義兄梛野あての手紙には、「死生は私には不仕候」と記されていた。(p.67~9)
 彼の書や、使用した硯・軍扇、そして北越戊辰戦争についての解説などを拝見。継之助自ら購入し実戦で使ったガトリング砲(手動機関銃)の複製も展示してありました。なお彼の政治信条は「民は国の本、吏は民の雇」。今だったらさしずめ「吏は国の本、民は吏の奴」といったところですか。ま、いたしかたありません、アレクシ・ド・トクヴィル曰く"民主政治においては、人々は自らにふさわしい政府しか持てない"。
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 そして山本五十六記念館へ、あまり興味もないのでざっと見学。すぐ近くにある山本記念公園は、山本五十六のかつての生家・高野家があった地に整備された公園です。園内には復元された五十六の生家と胸像がありました。
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 それでは夕食にまいりましょう。途中で「米百俵之碑」があったので撮影。碑文を読むと、その米で建てた国漢学校の跡地だそうです。新潟と同様、歩道にある自転車レーンがたいへん広いのがうらやましい、雪国ゆえのことなのかもしれません。
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 そしてホテルの近くにある半久亭に行って、長岡B級グルメのカレーラーメン食しました。ありそうであまり見かけない一品ですね、スパイシーなスープがなかなか美味。なおこのあたりは空襲で焼け残ったのか、古い家をいくつか見かけました。酒屋で地酒「久保田」を購入し、ホテルへ帰還。シャワーを浴びて一献傾けながら明日の行程を再確認して就寝。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-07-17 20:30 | 中部 | Comments(0)
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