越後編(44):木喰(13.3)

 なお観光案内所でいただいたパンフレットによると、上前島金毘羅堂には目鼻も口も判然としないような摩耗した木喰仏があるそうです。なんでも子どもたちの遊び相手だったそうで、夏は川に投げ込んで浮き輪がわり、冬はそりにして雪はおろか砂利道の上をひきずり、時には幼い弟妹を帯でつないで子守りがわりにしたそうです。いい話ですね、さすがは木喰仏…と思いきや、名著『逝きし世の面影』(渡辺京二 平凡社ライブラリー)によると、木彫りの仏像で子どもたちが遊ぶ例は、他にも散見されたそうです。
 しかし一方、「子どもたちが遊びの際に自分たちだけでやるように教えられているそのやりかた」に彼女(※イザベラ・バード)は感心した。「家庭教育の一部は、いろいろなゲームの規則をならうことである。規則は絶対であり、疑問が生じた場合は、言い争ってゲームを中断するのではなく、年長の子供の裁定で解決する。彼らは自分たちだけで遊び、たえず大人を煩わせるようなことはしない」。つまり日本の子どもは自分たちだけの独立した世界をもち、大人はそれに干渉しなかったのである。だからこそモースは、日本の子どもが「他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持」っていると感じたのだ。
 子どもは大人に見守られながら、彼らだけの独自な世界をもっていた。1812年、日向国佐土原藩の修験者野田成亮は、全国の霊山を訪ねる修行の途上、肥後国日奈久での見聞を次のように記している。「当所に子供地蔵といふあり。木像にて高さ一尺一寸ばかりあり。子供、遊び道具にす。夏分どもには、地蔵さんも暑かろうとて川の中へ流し、冬は炬燵に入れる。方々持ち廻り、田の中などへ持ち込めり。しかりといへども障りなし。大人ども叱りなどすれば、たちまち地蔵の機嫌をそこなひ障りあり」。これは局地の奇習ではない。大人とは異なる文法をもつ子どもの世界を、自立したものとして認める文明のありかたがここに露頭しているのだ。徳川期の文明はこのように、大人と子どものそれぞれの世界の境界に、特異な分割線を引く文明だったのである。そのような慣行は明治の中期になってもまだ死滅してはいなかった。しかしそのように、子どもの自立した世界を認める文明は、また一方では、大人の生活のあらゆる面に子どもの参加を認める文明でもあった。(p.396~7)
 「大人とは異なる文法をもつ子どもの世界を、自立したものとして認める文明のありかた」か、なるほど。そこでは大人にとって聖なる存在も、遊び相手・話し相手となるのですね。それでは現代の日本の子どもたちは、自立した世界を認められているのでしょうか。ゲーム、携帯電話、テレビ、インターネット、学習塾、習い事、大人の世界に絡め取られた"金を使わせる小さな消費者"としての姿しかないように思えます。自立した世界を子どもたちから奪うと、将来、どういう人間になるのか。もしかすると私たちは、人類史上はじめて行われる壮大な実験を目の当たりにしているのかもしれません。虚ろな眼でスマートフォンをいじりながら幽鬼のように彷徨する方々を見ていると、その答はもう出ているような気がしますが。
by sabasaba13 | 2014-07-19 06:48 | 中部 | Comments(0)
<< 越後編(45):柏崎(13.3) 越後編(43):寶生寺(13.3) >>