壁と卵

 7月20日(日)10時25分配信のAFP=時事によると、イスラエル軍がガザ地区で「プロテクティブ・エッジ作戦(Operation Protective Edge)」を開始してから12日目の同日までにパレスチナ側の死者は342人に達しました。複数の人権擁護団体は、子供の犠牲者が増えていると警鐘を鳴らしているとのことです。
 この暴力と憎悪の連鎖は、どうすれば解決できるのでしょうか。基本的には、アメリカのバックアップのもとに強硬姿勢を貫くイスラエルと、それに反発するパレスチナ・アラブ人、そしてそれに過剰に反応するイスラエル、という構図だと思います。たしかに双方に狂信的な考えを持つ人々がいるようです。すべてのアラブ人をこの地域から追放せよと叫ぶユダヤ人、ユダヤ人を殺すことがムスリムの義務だと叫ぶアラブ人。ただそうした人は少数派で、多くのユダヤ人やアラブ人が心の底から求めているのは、この地で暴力や戦争や紛争や貧困におそわれることなく、安心して暮らしたいというシンプルな願いなのではないでしょうか。しかしこの暴力の応酬はあまりにも非対称的です。爆撃機や戦車や白燐弾など、ハマスのテロを圧倒するイスラエルの国家テロ、それを背後で支えるアメリカ。この過剰かつ圧倒的な暴力がアラブ人の安全を脅かし、自分たちへの反発として返ってくることになぜイスラエルの人びとは気づかないのでしょうか。アラブ人を平和に共存できるパートナーとして対話をすることがイスラエル側にできるかどうか、そこに解決の鍵はあると考えます。映画『沈黙を破る』で描かれたように、徐々にそうした考えは広がりつつあるようです。
 イスラエル軍の圧倒的な暴力の前に晒されているパレスチナの人びと、それを思うと、2009年2月に村上春樹氏がエルサレム賞を受賞した時のスピーチが脳裏に浮かびます。この賞を受けたことについては国内外から様々な批判があったことを記憶しています。『雑文集』(新潮社)に収められているのですが、前書きで氏はその時の思いをこう語っています。
 でも遠くの土地で僕の本を読んでくれているイスラエルの読者のことを考えると、そこに行って、自分の言葉で、自分なりのメッセージを発する必要があるのではないかと思いました。そんな中で、この挨拶の原稿を一行一行心を込めて書きました。ずいぶん孤独だった。ビデオで映画『真昼の決闘』を何度も繰り返し見て、それから意を決して空港に向かったことを覚えています。(p.75)
 今、読み返しても、氏の思いに胸を打たれます。これほど心のこもった真摯な文章にはなかなかお目にかかれません。きっと凄腕の彫金師のように、大胆かつ細心に一言一句を刻みつけたのだろうなあ、と想像します。一部ですが、その核心となるところをぜひ紹介したく思います。
 ひとつだけメッセージを言わせて下さい。個人的なメッセージです。これは私が小説を書くときに、常に頭の中に留めていることです。紙に書いて壁に貼ってあるわけではありません。しかし頭の壁にそれは刻み込まれています。こういうことです。

 もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

 そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?

 さて、このメタファーはいったい何を意味するか? ある場合には単純明快です。爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民は卵です。それがこのメタファーのひとつの意味です。
 しかしそれだけではありません。そこにはより深い意味もあります。こう考えてみて下さい。我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと。かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。

 私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信じています。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試み続けること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けているのです。

(中略)

 私がここで皆さんに伝えたいことはひとつです。国籍や人権や宗教を超えて、我々はみんな一人一人の人間です。システムという強固な壁を前にした、ひとつひとつの卵です。我々にはとても勝ち目はないように見えます。壁はあまりに高く硬く、そして冷ややかです。もし我々に勝ち目のようなものがあるとしたら、それは我々が自らの、そしてお互いの魂のかけがえのなさを信じ、その温かみを寄せ合わせることから生まれてくるものでしかありません。
 考えてみてください。我々の一人一人には手に取ることのできる、生きた魂があります。システムにはそれがありません。システムに我々を利用させてはなりません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。
 私が皆さんに申し上げたいのはそれだけです。(p.77~80)
 このメタファーは心に残ります。壁と卵、システムと脆弱だけれどもかけがえのない個人。私も卵の側に立ちたい。
 ふと思い浮かんだのが、安倍伍長政権に対する私の嫌悪感です。うまく言葉にできなかったのですが、彼が全面的に壁の側、システムの側に立っているところにその淵源がありそうです。彼が擁護し支援するのは国家権力、軍隊(自衛隊)、そして大企業といった壁・システムです。その前で数多の卵が押し潰されても、まったく意に介さない。さらに私たちを、この壁・システムへと組み込もうとする。彼が推し進める教育改革も、つまるところ、卵よりも壁の側に立つ人間に育てようという狙いがあると思います。安倍伍長政権に対する支持率の高さも、壁・システムの側に立ちたいと思う人が多いということなのかもしれません。私はまっぴら御免ですが。
 ピンク・フロイドを聴きながら、この一文を書き終えました。 ♪All in all you're just another brick in the wall♪
by sabasaba13 | 2014-07-21 06:03 | 鶏肋 | Comments(0)
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