越後編(50):良寛と夕日の丘公園(13.3)

 そしてタクシーに戻って、出雲崎に向かってもらいました。延々と続く金網に沿って走っていると、運転手さんから「原発が見えるところに寄ってみますか」というオファーがありました。行かいでか、お願いして寄ってもらいました。国道352号線から脇道に入ると、民家の甍の波の上に屹立する核(原子力)発電所を見ることができました。何という禍々しい光景であることか、しばらく息を呑んで見つめてしまいました。
 ここから出雲崎までは海沿いの気持良い道路を走って約二十分、良寛と夕日の丘公園に到着です。ここでタクシーとはお別れ、運転手さんにお礼を言って料金を支払いました。ここは高台となっており、日本海と佐渡、妻入りの町並みを一望できる素晴らしいビュー・スポットです。また「世の中に まじらぬとには あらねども 一人あそびぞ われはまされる」という良寛の歌碑や、二人の子どもと語らう良寛像もありました。近くには良寛の遺墨・遺品を展示する良寛記念館があるので見学することにしましょう。
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 まずは、スーパーニッポニカ(小学館)から、抜粋して引用します。
 良寛(1757/58-1831) 江戸後期の歌人、漢詩人。越後出雲崎の名主兼神職の橘屋山本左門泰雄の長子として生まれた。母は佐渡相川山本庄兵衛の女。幼名栄蔵、のち文孝、字は曲(まがり)、剃髪して良寛、大愚と号した。18歳のとき一時家を継いだが、同年、突如、隣町尼瀬町曹洞宗光照寺の玄乗破了和尚の徒弟となり出家して良寛と称した。1775年(安永4)[筆者注:1779(安永8)年か]7月備中国玉島円通寺の国仙和尚が光照寺滞在中感銘し、随行して玉島に赴き20年間師事する。中国、四国、九州を行脚し、京都から高野山に上り40歳を過ぎてから越後に帰った。越後へ帰国後は郷本、中山、寺泊を転々し、それよりさらに国上山山腹の草庵五合庵にひとりで住み、ここで15、6年を過ごした。のち、69歳国上山麓の乙子神社境内に庵をつくって移ったが、老衰のため、三島郡島崎村の豪商能登屋木村元右衛門邸内の庵に移って供養を受けた。
 良寛は僧ではあっても生涯寺をもたず無一物の托鉢生活を営み位階はない。人に法を説くこともせず、多くの階層の人と親しく交わった。子供を好み、手毬とおはじきをつねに持っていてともに遊んだ。正直で無邪気な人であって、人と自然を愛して自然のなかに没入していた。無一物でありながら、震えている乞食に着物を脱いで与えたこともある。
 彼は、歌と詩と書に優れていて、多くの作品を残した。どれも一流であるが、どれにも師がなかったらしい。歌人としての良寛がもっとも広く知られているが、和歌の師は『万葉集』で、人に借りてこれを愛読し、進んでその影響を受けた。彼の歌は正直で純真である。人間と自然に対して純真な愛を感じ、その心のままを正直に平易に詠み、個性が赤裸々に出て人を感動させる。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2014-07-28 06:19 | 中部 | Comments(0)
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