越後編(57):サフラン酒造鏝絵蔵(13.3)

 それではこの蔵のコテ絵をつくった左官は誰か。藤森氏によると、鬼瓦に「大正二年」と彫り込んであるので制作年は1913年、意外と新しいのですね。そして正面軒回りの左端に「佐伊」と彫り込んであることから、「河村伊吉」というサフラン酒造のすぐそばに住んでいた左官がつくったことがわかりました。
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 なお「乙女チップス」というサイトは、河上(ママ)伊吉は、石川雲蝶の彫刻が残る開山堂を頻繁に訪れており、その影響が見られるとされていますが、その根拠については述べられていません。
 ではこんな毒々しくケバケバしく遊び心に満ちた蔵をつくらせた施主は何者か。これも藤森氏の『建築探偵神出鬼没』から抜粋して紹介します。サフラン酒造の創業者は吉沢仁太郎。彼は幕末に貧農の子として生まれましたが、1887(明治20)年ごろ、サフラン酒なるものを製造するようになりました。十六種の生薬の煎じ液とサフランを加えた薬酒です。彼の才はその売り方にあり、竹筒にサフラン酒を詰めて行商に出かけますが、まず町に入ると薬屋を訪れて効能を説き、二本を試用として無料で進呈します。ここまでは誰でも考えますが、ポイントはこの先で、近くの宿に泊まり、夜がふけると仁太郎はにわかに激しい腹痛に襲われる…ふりをします。あわてふためく宿の女中に「近くの薬屋でサフラン酒を…」。昔の地方の宿屋は、その地域の新しい情報の発信源、そこをおさえたのはさすがです。さらにその働きぶりも尋常ではなかったそうです。息子の吉沢総太郎さん(秋葉原のサフラン電機のオーナー)によると、服を着替える間が惜しいからと昼の姿のまま眠り、朝四時には使用人より早く起きて仕事をはじめ、鼻紙なぞは長火鉢の鉄瓶のつるにかけて乾かして何度も使ったそうです。そうしてたまったお金を、仁太郎は普請につぎこんだのですね。いわゆる普請道楽。藤森氏は、このケバい蔵によって、暗く重苦しい越後の冬をはねかえそうとしたと指摘されていますが、馬高の火焔土器や石川雲蝶との共通点にも着目したいですね。うまく言えないのですが、外連味というか、凝りに凝った凄みというか、何かそうしたものが東国人の心性の中にうごめいているような気がします。
 それはさておき、身銭をはたいてこんな素晴らしい蔵を残してくれた仁太郎さんには心から感謝します。後世の我々に感動を与えてくれたのですから、レクサスやドン・ペリエにお金を蕩尽してご満悦の成金諸氏よりは、はるかに尊敬に値します。思うに、お金の有難さを知っていたかつての金持ちは、職人や芸術家のパトロネージュとして素晴らしい作品を残す責務というものが分かっていたのではないでしょうか。濡れ手に粟、投機によってあぶく銭を稼ぐグローバリゼーション時代の金持ちには、そうした責務は風馬牛なのかもしれません。

 というわけで、これからも鏝絵を拝見する旅を続けていく所存です。参考までに、これまで見てきた鏝絵は、銀山温泉(山形)、高萩(茨城)、下三宮集落(福島)、貞光(徳島)、室津(兵庫)、築後吉井(福岡)、岩瀬(富山)、黒石(青森)、別府(大分)、安心院(大分)、厳原(長崎)、松崎(静岡)です。藤森氏は西日本で鏝絵があるのは大分県だけだとされていますが、けっこうあるようです。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2014-08-08 07:12 | 中部 | Comments(0)
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