「ちゃんと話すための敬語の本」(橋本治 ちくまプリマー新書001)読了。橋本氏は凄い。他人の言葉を借りず、とにかく自分の言葉と頭だけで、徹底的に考えぬき、表現しぬこうとする態度には畏敬の念をおぼえます。いつか私も、自分の言葉で考えぬきたい。この本は、敬語という厄介な表現を、彼独特の語り口でわかりやすく明快に説明してくれています。
「ランクが下の人には、命令口調だけでいい」―これが、隠された敬語の暗黒面です。「敬語を使え」と言うことは、じつは、「おまえはオレに対して、尊敬と謙譲と丁寧の敬語を使え。オレはおまえには使わない。オレはえらいんだからな」と言うことと同じなんです。
現代で敬語が必要なのは、「目上の人をちゃんと尊敬するため」ではありません。「人と人との間にある距離をちゃんと確認して、人間関係をきちんと動かすため」です。
日本語の二人称の代名詞は、「知っている人」だけなんです。…「知らない人が目の前にいる時に使う二人称の代名詞は、ないのです。ふしぎでしょう?
なるほどねえ。たしかにそうだ。例えば、近い距離にいる身近な人や、遠い距離にいる見知らぬ人に対しては、平気で二人称代名詞を使えます。困るのは少し接点がある他人ですね。ブログでコメントを書き込む時に、「あなたは…」という言い方はなかなかできません。結局、二人称代名詞を使わずにすませてしまいます。おそらくどの代名詞を選ぶかによって、先方をどう評価しているかが明らかになり、それに対する先方の反応を気にしてしまうということだと思います。著者はこれを日本語表現の豊かさと言っておりますが、めんどくさい時や困ってしまう時もしばしばあります。常に他者との距離を意識してつきあっていくという、この列島の文化は何故生まれたのでしょうね。やはり異文化をもつ他者との接触があまりにも少なかったということなのかな。それはともかく、敬語と対人関係の距離の関係について分かりやすく分析した著者の力量には恐れ入ります。
また「身分のある人」と「身分のない人」にまず大きく分けて、「身分のある人」をもっと細かくランク分けするというのが、日本の身分制度だという指摘も鋭いです。今でも、大学を出ているかいないか、大学出だとその偏差値を気にするのも、確かにその名残かもしれません。
「ひらがな日本美術史」(新潮社)も面白いですよ。
物理的にも心理的にも、距離感の喪失という事態は急速に進んでいるようです。電車のドアの脇で本を読んでいると、空間は十分にあるのにすぐ眼前でドアにもたれかかり携帯電話をいじりはじめる方と良く出くわします。鼻先10インチ! 私の空間を侵されていると感じて不快に思います。人にぶつかってもあやまらない人が増えていると、「ヨミウリ・ウィークリー」(05.7.24)の特集記事にもありました。(あまりに国家主義的立場をとっているので読売・サンケイ系列は敬遠しています。よって立ち読み。) 朝日新聞には「敬語の間違いが増えていると思う人が8割を超え、自分の使っている敬語に自信のない人が4割に近いことが、文化庁が12日に発表した国語に関する世論調査の結果でわかった。」という記事もありました。(05.7.13朝刊) 何かとんでもない事態が進んでいます。他者との距離をとりすぎて孤立し引きこもるか、距離をとれなくて他者との軋轢を引き起こすか、現代人は両極分解していくのかもしれません。でもなぜなのだろう?
私の鼻先30インチに
私の人格の前哨線がある
その間の未耕の空間は
それは私の内庭であり、直轄領である。
枕を共にする人と交わす
親しい眼差しで迎えない限り、
異邦人よ、
無断でそこを横切れば
銃はなくとも唾を吐きかけることはできるのだ
~W.H.オ-デン~