『日本人は人を殺しに行くのか』

 『日本人は人を殺しに行くのか 戦場からの集団的自衛権入門』(伊勢﨑賢治 朝日新書485)読了。集団的自衛権の容認、イスラム国と日本人人質事件、真摯に考えなければならない問題が山積している今、タイムリーな本に出合えました。
 著者は、自称「紛争屋」。国際NGOの職員としてアフリカの貧困問題に取り組んだり、国連平和維持軍を統括したり、日本の外務省からの指令で世界各国の紛争現場で、紛争処理や武装解除の活動をされてきました。現在は東京外語大学大学院教授として「平和構築・紛争予防講座」という講義を開かれているそうです。さすがはプロフェッショナル、感情論でも机上の空論でもなく、いかにして緊張を緩和して安全を確保するかについての実践的かつ有益なお話をたくさん聞くことができました。
 例えば、なぜイスラム世界においてInsurgents(テロリスト)が大きな勢力を持つのか。氏は、内戦などで国が混沌とし、秩序を提供する国家自体が存在していない状態になると、Insurgentsたちがスーッと忍び込んでくると述べられます。暴れん坊と腐敗した警察に困り、裏の実力者に頼んだら、ある朝、その連中がボコボコにされて木に吊るされていた。それをきっかけに、Insurgentsは、少しずつ彼らの教義を民衆に浸透させていきます(原理化)。それはいつの間にか、恐怖政治に姿を変え、住民たちを服従させていきます。その過程で、住民の中から職にあぶれたいきのいい若者を手下に引き込んで仲間にし、恐怖政治を確固たるものにしていきます(過激化)。
 ではどうすればよいのか。しっかりとした国軍と公平な警察を中心に秩序を形成し、国民に安心を与え、福祉政策も実施し、国民が自ら安心してネーションに帰依できる政府をつくる。気の遠くなる作業ですが、対テロ戦の"戦い方"は、これしかないと氏は断言されています。(p.137) となると、日本の出番です。武力を前提とせず、内政干渉だと反発されることなく当事国の行政改革を行い、民衆に信頼される"ネーション"を打ち立てることが日本にはできるはずだ、というのが伊勢﨑氏の主張です。
 しかし、アメリカを中心に、軍事力によってこうしたInsurgentsたちを屈服させようとしているのが現実です。その結果、イスラム世界の人びとは、西洋社会を傍若無人な侵略者・異教徒と見なし、その攻撃によって同胞や家族の犠牲が出るとさらに怒りを増幅させる。テロとの戦いに終わりがない所以です。そして日本はその片棒を担いでいます。何故か。イラク戦争を例にとり、氏はこう述べられています。
 当時、「戦争の大義は間違っていた。しかし自衛隊派遣でブッシュ政権を支持したことは日本の国益に適っていた」。こんな声が日本の政府関係者、そしてアメリカや安全保障通と称する有識者から盛んに聞かされたのです。すべては、当時、挑発行為を繰り返していた、北朝鮮対策のためだったと。
 しかし、イラクの民の命は、日本の北朝鮮問題とは一切関係ありません。にもかかわらず日本人は、自分の目先の国防問題に利する(そうすればアメリカが北朝鮮の脅威から日本を守ってくれる)からといって、それを、日本から遠く異郷の民(イラクの人々)の血と引き換えにすることで、購ってきたのです。
 はっきり言いましょう。これは「非道」な行いです。
 どんなに「国益のため」、「愛国のため」と謳おうとも、「非道」な行いであることは明らかです。そして、現在の安倍政権の「集団的自衛権容認」のロジックも、これとまったく同じものなのです。(p.248~9)
 周辺諸国と、領土問題をはじめ様々な緊張を抱える日本。そこでアメリカの軍事力に頼ろうとして、その軍事力行使に協力をしたり、主権を放棄し破格の待遇で米軍に基地を提供したりするわけですね。氏曰く、"チョット耳元で囁くだけで、日本人は簡単に震え上がってくれて、それだけで、お金をATMのように引き出せるようになるのですから(p.123)"。たしかに切なくなる話です。ではアメリカから自立し、かつ日本の安全を保障するにはどうすればよいのか。
 なるべく"敵をつくらない"こと。それが日本にとって、最も安上がりで効果的な「国防」の方法なのです。そのためには、「敵を作らないための素質」を高め、他国の敵愾心を煽るすべての行動を慎むことです。(p.186)
 その一例として、領土問題を解決するための「ソフトボーダー(やわらかな国境)」という考え方を紹介されています。これは両国の協力で管理する国境、ポイントは、国境として実効線はあるけれど、軍事化はしないという点です。つまり、密輸などの違法行為の国境警備は警察間で協力して行うけど、そこに軍を置いて銃を突きつけ合ったりはしない、ということです。また、場合によって、国境は実効線ではなく帯状の一定の地域となり、そこに昔から住んでいる住民はビザなしで国と国を行き来できるようにしたり、河川や森林、天然資源などは、共同で開発、管理をします。国境が持つ排他的なイメージを変え、両国で共有する場という捉え方です。(p.197)

 以上、稚拙な要約ですが、本書の魅力を少しでもお伝えできたら幸甚です。"安全保障"という話になると、すぐに喧嘩腰になって軍事力強化を主張する方々が増えている昨今、「本当に軍事力で安全を保障できるのか」という問題を提起してくれる好著です。と同時に、誰のための安全保障なのか、ということも考えさせられました。アメリカのための安全保障なのか、グローバル企業のための安全保障なのか、自民党のための安全保障なのか、それとも民衆のための安全保障なのか。安倍伍長の求める「集団的自衛権」とは、グローバル経済の旗手・アメリカの覇権の維持に協力して、そのおこぼれにあずかることなのでしょう。その覇権に抗う人びとを空爆など圧倒的な/非対称的な軍事力で屈服させようとして女性や子どもなど無辜の民までを殺害し(コラテラル・ダメージ!)、それが非対称な怒りを呼び起こし、テロルという刃となって跳ね返ってくる。やれやれ、どこが安全保障なのでしょう。民衆の安全保障のためには、軍事力を行使しないこと、そして敵をつくらないことが重要なのだと教示していだきました。伊勢﨑氏に感謝します。

 追記。イスラム国に捕えられた二人の日本人が殺害されてしまいました。哀悼の意を表するとともに、こうした非道な行為を行わないよう強く訴えたいと思います。しかし、私の拙い知識、および本書を読んだことによって、いくつかの疑問がわいてきます。
 その一。安倍伍長は、人質解放のために本当に全力を尽くしたのか。例えばイスラム学者のハサン中田孝氏が、イスラム国とコネクションがあるので現地に飛んで交渉してもよいと言明されましたが、彼に協力を要請したのか。しなかったのではないか。ちなみに『イスラム戦争』(内藤正典 集英社新書0770)によると、氏は、その信仰と学識によって、イスラムの国々はもちろん、タリバンやイスラム国までもが客人として迎える稀有なる方だそうです。
 その二。日本政府が行なう有志連合に対する援助は、ほんとうに「人道的」なものなのか。有志連合の攻撃に利する内容は含まれてはいないのか。
 その三。有志連合による攻撃、一方的で非対称的な空爆によって、多くのイスラム民衆が殺害されているのではないのか。それは国家テロではないのか。
 その四。今回の事態を巨視的に見ると、石油をめぐる争いではないのか。石油をわが物にしようとするイスラム国と、これまで通り、グローバル企業が石油資源を支配する体制を維持しようとする有志連合の戦いではないのか。どちらに理があるのか、あるいはどちらにもないのか。そして日本は明白に後者の側に立っているのではないのか。
 その五。そもそもイスラム国とはどのような存在なのか。単なるテロリスト集団なのか。あるいはアメリカが打ち立てた傀儡政府を倒してそれに代わる政府になろうとしているのか。あるいは「国民国家」という範疇では捉えられない新しい国家形態をめざしているのか。
 その六。そのイスラム国が台頭できるような状況、治安と秩序の崩壊をもたらしたのはアメリカではないのか、そして日本はその片棒を担いだのではないのか。
 そして最後。今回の事件を招いた責任は安倍伍長にあるのではないか。国家テロを行なう有志連合とイスラエルの側に明白に立つという政策判断が間違っていたのではないのか。テロの応酬を行なうイスラム国と有志連合の双方から距離をとり、対話の場をつくるなど事態を少しでも改善するという選択肢はなかったのか。

 いろいろと疑念がわいてきます。ただ"「凶暴で狂信的なテロリスト集団」を国家テロという暴力で叩き潰す、その際にどれほどイスラム民衆に犠牲が出ようとも仕方がない"というやり方では、事態は悪化する一方ではないのかな。安倍伍長の「テロに屈しない」という言明の真意が、アメリカを中心とする国家テロに、集団的自衛権という形でより積極的に加担しようという内実でなければいいのですか。日本政府はどちらのテロにも与しないでほしいものです。繰り返しになりますが、軍事力を行使しないこと、そして敵をつくらないことを日本外交の指針にしてほしいと熱望します。そして私たちも巨視的かつ歴史的な視点で、この問題を考えるべきでしょう。日本政府やメディアが垂れ流す情報に流されず、しっかりと勉強していきたいと思います。そのためにも、後藤氏の遺志を継ぐジャーナリストの皆さんを応援します。
by sabasaba13 | 2015-02-05 06:20 | | Comments(0)
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