『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』

 『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(C.ダグラス・ラミス 平凡社ライブラリー)読了。ハーマン・メルヴィル作『白鯨』の主人公、エイハブ船長(モビー・ディックが主人公かな)は自分の狂気を自覚していて、一等航海士にそれをこう説明したそうです。「私の使っている方法と、やり方はすべて正常で合理的で論理的である。目的だけが狂っている」(p.28)。本書は、財界・官僚・政治家が合理的かつ論理的な手段で追求する"経済成長"という目的が、いかに狂ったものであるかを、容赦なくあばく見事な一冊です。さらに経済成長とは違う、もう一つの選択肢(オルタナティブ)についての提案もされています。そして本書を魅力的なものにしているのは、著者ラミス氏の語り口。深いことを、やさしく、かろやかに、真摯に、時にはユーモアをもって語るその語り口にはぐいぐいとひきこまれてしまうこと請け合い。何とかの一つ覚えのように"経済成長"をくりかえす安倍伍長にはぜひ読んでいただきたい一冊です。贅言はやめましょう。叡智にあふれたラミス氏の話に耳を傾けてみませんか。
 そしてもう一つ、この歴史的な瞬間の特徴は、戦争が終わった段階でアメリカは投資する場所を探していたということ。アメリカにとって第二次世界大戦はとても経済的によかった戦争でした。戦争によって不景気から脱出し、ひじょうに景気がよくなったのです。戦争が突然終わったら、また不景気になる恐れがあった。だから投資できる場所が必要だった。そこで南の「未開発」の国を、投資のできる、もっと投資しやすい、投資すれば利益がちゃんと返ってくるような経済制度に作り直せば、とても役に立つということになります。(p.96~7)

 数年前から、グローバライゼーションという言葉が流行っていますが、グローバライゼーションというのは新しい現象ではなくて、植民地主義も、帝国主義もグローバライゼーションだった。ただ、植民地主義、帝国主義の時代には、ある意味ではもう少し今よりも正直な側面があったと思います。つまり、これは搾取であるということを、みんなが意識していた。(p.97)

 もう一つ、自給自足の文化があった場合のやり方。その人たちは森林に住んでいて、欲しいものは森林のなかにだいたいある。食べ物も、薬も、建築材料も、すべてそこで手に入るから、そんなにたくさん働かない。それなら、その森林をなくせばいい。森林を完全に伐採して、コーヒーかゴムか、何かのプランテーションを作る。その人たちが生き残るためには、もうプランテーションの労働者になるしかない。それも間接的強制労働である、と彼は批判している。(p.104)

 これが経済発展の中身です。私たちが経済発展と呼んでいること、それは地球上のすべての人間、すべての自然を産業経済システムのなかに取り入れるということなのです。(p.111)

 私たちが今の世界を見るとき、うまくいっているところは発展されている、人がたくさん苦しんでいるところは「発展途上国」「まだ発展が足りない」、そういうふうに分けていますけれども、それは幻想です。「発展した国」も「発展途上国」もすべて、発展という過程が作った世界だと考えるべきなのです。(p.112)

 経済発展とは「スラムの世界」を「高層ビルの世界」へと少しずつ変身させる過程だというのは錯覚であって、ごまかしです。経済発展の過程によって、昔あったさまざまな社会が「高層ビルとスラムの世界」になってきたのが、二十世紀の歴史的事実なのです。(p.113)

 第三世界あるいは南の国は「発展されて」いないのではないのです。「発展されて」そうなっている。発展が足りないから貧乏なのではなく、発展されたから貧乏生活が以前と違った貧乏生活になったと考えたほうが正しい。貧乏であるなしにかかわらず、地球上のあらゆる人が世界経済システムに完璧に組み込まれている。そういう意味です。(p.115)

 経済発展は、南北問題を解決するのではなく、原因の一つなのです。もちろん貧富の差というのはそれ以前からあった。経済発展があって初めて貧富の差ができたということではありません。けれどもそれより、もともとあった貧富の差を、経済発展が合理化した、ということです。合理化というのは、利益がとれるようなかたちに作り直した、という意味です。だから「貧困の近代化」は「貧困の合理化」と言い換えることができます。(p.115~6)

 一つは、みんなが経済発展すると地球がもたないということです。それははっきりしている。だいぶ前にある環境運動家、あるいは研究者が出した計算ですが、アメリカ・ロサンゼルスの一人当たりのエネルギー消費を基準にして、それに世界の人口をかける。つまり、ロサンゼルスの消費率が世界中に広がった場合にどうなるかというと、地球が五個ないと足りない、という計算になる。(p.117)

 臣民がいないと、国王には力がない。国王が命令し、臣民が動く、それがないと、国王には力がない。彼の力(パワー)は他の人の「力のなさ(パワーレスネス)」が前提になっているわけです。
 それがリッチのもとの意味で、数百年経ってそれが経済的な意味になった。つまり、お金から生まれる力、言い換えれば経済力がrichの意味になったわけです。なぜお金を持っていると力になるかというと、それは他の人がお金を持っていないからです。他の人が持っていなくても、誰もお金を欲しいと思わなければ、お金を持っているということは全然力にならない。つまり、お金を持っていないが欲しいと思っているたくさんの人間がいるということが金持ち(リッチ)の前提になっているのです。だからお金があると、お金のない人を支配できる。お金のない人の労働力を支配できる。直接人を雇うか、あるいは低賃金労働によって作られた物を安く買うか、どちらでも同じことです。他人の労働力を支配できるということが、金持ち(リッチ)の本質です。
 自分が金持ち(リッチ)になろうとすれば、原則として二つの方法があります。一つは自分がお金を集める、もう一つは周りの人たちを貧乏にする。どちらでも結果は同じです。金持ちというのは、一種の社会的関係、人と人との関係を指す言葉なのです。(p.119~20)

 ところが、二十世紀になると、人が想像したことのない、欲しいと思ったことのない物が、生産されるようになる。存在しなかったのだから欲しいとも思わなかった物を、作るようになった。それはたんに人々の趣味とか興味が変わったということだけではありません。この新しい製品を買わなければちゃんとした生活ができない、というように社会そのものを作り直してきたということです。今まで存在したことのない商品が、最初は贅沢品として現れる。買えない人は買えたらいいなあと思ってはいても、買えないから困るということは特にない。しかし、そのうち社会が変わってくると、その商品がいつのまにか「あればいいもの」から「ないと困るもの」に変わっていき、買えない人が惨め、貧乏ということになる。
 たとえば車が一つの大きな例です。私の生まれたカリフォルニアは今、世界のなかでも有数の車社会ですが、もちろん百年前のカリフォルニアに車はなかったし、車なしの生活は可能だった。車なしでも買い物ができたし、どこかへ行こうと思えば、時間はかかったけれども、どこへでも行けた。そもそもよっぽどのことがなければ人はそんなに遠くへ行かなかった。車がなかったから当然ですが、車なしの生活が可能だった。
 ところが今、カリフォルニアのほとんどの街では、車がないと生きていけない。欲しいか欲しくないかは別として、車があるということが、街の構成の前提になってしまっているのです。これがイリイチの言う「根源的独占」という概念の意味です。
 車社会は「車を買ったらいかが?」と人を説得しているのではなくて「車がないと貧乏だよ、とても不利な生活をしているよ」と人を脅し、強制しているわけです。
 アメリカではとても有名な話ですが、1920年代まで、ロサンゼルスは世界でも有数の通勤電車のある街だった。それを自動車会社が買収したのです。彼らは次第に電車を減らしてゆき、不便なものにして、やがて赤字にして廃止した。自動車産業は同じようにアメリカ中の鉄道や路面電車の会社を買収して、車文化を作った。とても暴力的な歴史なのです。自由市場で車文化になったということではないのです。(p.121~5)

 そしてこれは失業者やホームレス、貧困者が増えることを止める努力を諦めるという意味ではまったくありません。そうではなく、むしろこうした問題の本当の解決、根本的な解決を求めるという意味なのです。…それは経済的な解決ではなく、政治的な解決です。つまり、成長ではなくて、分配です。正当な、正義に基づいた分配という解決を求める。
 この正義に代わるものとして経済成長が位置づけられたのは、もうずっと前、十九世紀のことです。貧富の差が社会にあれば、その解決は正当な分配を求めることではなく、成長によってである、と私たちは言われ続けてきた。
 豊かさのパイを再分配するのではなく、パイそのものを大きくすれば、小さなピースもそれなりに大きくなるのだから、みんな満足する。(p.134~5)

 ところが、問題は少なくとも二つあります。まず、パイは大きくなるかもしれないけれど、地球、つまり自然環境は大きくなりません。だから、パイを大きくし続けるために経済成長をいつまでも続けていくわけにはいかない…
 そして世界経済システムそのものの構造から考えれば、パイの大きな部分はどうして大きいのかというと、もちろん小さいところからとっているから大きいのです。だから、経済成長によって小さなパイのピースも大きくなるというのは嘘です。実際に「マイナス成長」の国があるわけです。
 現在、世界の人口の20%が、世界の資源の80%を消費している、というのはとても有名な統計です。もちろん資源の80%がすべてその20%の人たちの暮らす国内にあるわけではない。豊かな国の豊かさはどこからくるかというと、いわゆる貧乏な国から輸入されているのです。豊かな国は貧乏な国からとっているから豊かなのです。豊かさのパイの材料そのものが、もともと貧乏な国のものですから、彼らのパイのピースが大きくなるわけがない。それはもちろん国際的にそうだし、一国の国内経済を考えた場合でも同じだと思います。(p.136~7)

 競争社会を支えている基本的な感情は恐怖だと思います。暗黙のうちに存在する恐怖です。一生懸命に働き続けなければ貧乏になるかもしれない、ホームレスになるかもしれないという恐怖。あるいは、病気になったら医者に行かねばならないが、でもその支払いができないかもしれないという恐怖です。だから、考え方を切り換えたい、切り換えなければならないと思っても、とにかく仕事を続けなければいけないという個人的な選択に当然なるわけです。
 そういう恐怖があるのは、社会の安全ネットが弱いからだと思います。競争社会というのは基本的にそういう構造になっている。この仕事が楽しいからやる、あるいは続けるというよりも、馘になったら私はどうなるだろうか、仕事を失ったら私の家族はどうなるだろうか、子供はどうなるだろうかという恐怖が競争社会の原動力になっている。
 共生の社会というか相互扶助の社会が実現し、お互いに、誰でも例外なく面倒を見合えるような、そういう本当の意味の安全保障のできた社会であるならば、その恐怖は減るはずです。その恐怖が減れば、健全なゼロ成長の社会は可能になるのではないか。(p.138~9)

 「対抗発展」という言葉でまず言いたいことは、今までの「発展」の意味、つまり経済成長を否定することです。否定するというのは、これから発展すべきなのは経済ではないという意味です。それは逆に、人間社会のなかから経済という要素を少しずつ減らす過程です。
 すなわち一つには、対抗発展は「減らす発展」です。エネルギー消費を減らすこと。それぞれの個人が経済活動に使っている時間を減らすこと。値段のついたものを減らすこと。
 そして対抗発展の二つ目の目標は、経済以外のものを発展させることです。経済以外の価値、経済活動以外の人間の活動、市場以外のあらゆる、行動、文化、そういうものを発展させるという意味です。経済用語に言い換えると、交換価値の高いものを減らして、使用価値の高いものを増やす過程、ということになります。(p.141)

 物を少しずつ減らして、その代わり、物がなくても平気な人間になる。それは人間の能力の発展ということになります。もっと厳密に言うと、機械を減らして道具を増やすということです。道具は人間の能力の代わりになるのではなく、人間の能力を伸ばすように機能するからです。人間の能力、人間の器用さ、人間の技術が発展する。物を作るという単純な技術の復活です。大工とか庭の手入れとか裁縫とか自分の家で食べ物を生産するとか、昔はそういう能力がたくさんあったのに、それがだんだん少なくなってきている。
 そして人が文化を創る能力。テレビをつけて「文化」を見るのではなく、自分の家で文化を創る。さっき話したように、機械から音楽を聴くのではなくて、楽器を持つとか、自分で踊るとか、自分で芝居を作るとか。…生きていることを楽しむ能力を身につけるということです。機械に頼らないでそれができるか。そういう快楽主義が「対抗発展」の中心になればいいと思います。こうした過程を続けていけば、私たちが今では想像もできないような新しい能力、新しい技術、新しい文化が生まれてくるはずです。(p.156~9)

 20世紀、特に20世紀の後半には、第二章、第三章で紹介したような政治経済論が世界的な覇権をつかんで「常識」になりました。「正当な暴力」を独占する国家を作って、安全と秩序を守ってもらう。そしてその国家を単位として競争しながら、産業革命から始まった経済システムを世界の隅々まで広げる。
 この過程は1945年までは「帝国主義」と呼ばれ、1946年あたりから「経済発展」と呼ばれ、現在では「グローバライゼーション」と呼ばれている。(p.223)

 政府はどこか特定の国と戦争したがっているというよりも、「戦争ができる日本」を作りたがっているようだ。そして彼らがいう「戦争ができる日本」は、愛国心に溢れた、仕つけのよい、権威を疑わない、反対行動を起こさない、天皇崇拝の国民でできた国だ。彼らにとってこのような国が理想郷だろう。その理想郷の構造にはやはり戦争という要が必要だが、実際の戦争よりも戦争の神話の方が効率がいい。もちろん、実際の戦争が時々起こらなければ戦争の神話が薄れてしまうおそれがあるが、逆に実際の戦争をやりすぎれば戦争の神話が嘘だとばれてしまう。つまり、「戦争ができる国」の要としての戦争の神話は、恐怖1、ロマン1、という割合でできている。「戦争が起こるかもしれない、いつ攻撃されるかわからない」という慢性的な恐怖が社会の隅々まで浸透して、常識を支配するようになる。そして、「もしかすると戦争は面白いかもしれない、格好いいかもしれない」という戦争ロマンも社会常識に入って、戦争に対する抵抗を緩める。そのように、恐怖と憧れの間でうまくバランスを取れれば「戦争ができる国」の常識ができる。(p.238~9)

by sabasaba13 | 2015-02-18 06:32 | | Comments(0)
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