北海道編(15):網走監獄(13.9)

 それはともかく出発進行。国道の右手に、現在の網走刑務所があると教えてもらいました。そして十分ほどで網走監獄に到着。運転手さんに30分後に迎えに来てくれるよう依頼して別れました。それではtouch and goですが、博物館として公開されている網走監獄の見学を始めましょう。おっとその前に、北海道における監獄の歴史について、『河童が覗いたニッポン』(新潮文庫)の中で、妹尾河童氏が要を得た説明をされているので、紹介します。
 北海道には、五つの集治監(※監獄)が1881(明治14)年から1891(明治24)年の間にあわただしく作られたが、これは維新後の明治新政府に批判の抗議闘争が各地で起こり、逮捕者が急増したからだ。"反政府革命を意図した賊"として4万3千人も捕えられている。それらの政治犯を収容する獄舎を建てる必要に迫られていた政府は、アイヌから奪った土地を開拓し、新領土とすることを急務と考えていたから、その人的資源として投入する。「おカミに楯突き、体制を批判する行動をとった者や、凶悪犯罪者は、苦痛をともなう労役が相応である」という考えにもとづき、政府はやっかいな政治犯を北海道へ送り込んでいった。内地から急に寒冷地へ連れてこられた人達は、厳しい寒さだけでも耐えられなかったはず。おまけに獄舎には火の気もなかったから、全員が凍傷やあかぎれで皮膚が破れ、血膿を流して苦しんだという。その上に、開放される望みもなく、労役の日日が続いた。脱走・抵抗した者は、その場で斬殺された。政府は北海道開拓の重要な事業として、鉱山の開発にかなり前から注目し、採鉱に着手していたが、一般坑夫を使うより、タダ同然の囚人達の労役をこれに当てることを考えた。その労役の悲惨さは言語に絶するもので、ある報告書には、連鎖されたまま12時間も坑内労働をさせられている囚人達や、事故で手足を失って不具になった206名が、失明した50人ほどといっしょに、なお作業を続けさせられていると記されている。坑内でガスの発生が懸念されるときは、囚人を縄で縛り、吊り降して調べた。胴吊りされた囚人が動かなくなれば、ガスがあると判断し、新しい換気孔をうがった。またある硫黄鉱山では、わずか半年で囚人300名中の145名が罹病。42名が死亡している。この硫黄鉱山は、なんと民間の経営で、安田財閥の祖安田善次郎のものであった。ここでも経費のかからない労働力として囚人が徹底的に酷使されていたのである。当時の記録のあちこちに、後年日本を動かす財界人の名が現われている。渋沢栄一、安田善次郎、岩崎弥太郎、大倉喜八郎などが、政府内部の一派と手を結び、着々と財をなしていっているのが見える。
 さらに政府は、北海道開発をより早めるには、まず道路を開通させることが急務であり、それには、国家財政の負担になる一般の坑夫は雇わず、すべて囚人の労役によることが得策であると決定した。「囚人だから死なせてもかまわない、人数が減れば出費が助かる。補充の囚人は内地から新しく送ればよい」と考える政府首脳が要求した道路計画は、無謀に近いプランであった。特に旭川から網走を結ぶ『中央道路』は、山岳部を通る170キロの大工事で、膨大な犠牲者を出している。死亡者162名、うち逃亡を企て殺害された者3名、重労働に耐えかね自殺した者1名。死因も、栄養失調の上の過労というのが実態。他に、病気によって倒れた者延べ1916名。「年内に完成せよ」という厳命のもとに、計画してから8ヵ月間で開通させるという、驚異的な記録と『死の囚人道路』の名を残した。今、国道39号線と呼ばれている道である。
 しかし"集治監"の歴史は、過ぎ去った明治時代の物語として終わってはいない。というのは、我々が生きている"今日"という時代に、1908(明治41)年に制定された『監獄法』が、いまなお権威ある法律として存在しているからだ。この法は、すでに1919(大正8)年から"人権無視"が問題になっていた。しかし、今も厳然と原型をとどめている。刑務所・拘置所の建物が新しくなっても、この『監獄法』があるかぎり、"集治監時代"は終わっていない。『国連の最低基準規則』と比べると、それが一層ハッキリする。
 ちなみに、1881(明治14)年月形町に樺戸集治監、1882(明治15)年三笠市に空知集治監、1885(明治18)年標茶町に釧路集治監、その分監として1890(明治23)年網走囚徒外役所がここ網走に誕生しましたのですね。なおテニアン飛行場建設には、網走刑務所の囚人136人が動員されたそうです。
 なお、こうした苛酷な囚人労働を物語る遺跡が、囚人工夫の上に土をかぶせてできた土まんじゅう、鎖塚(くさりづか)。囚人は二人ひと組で足を鎖に結ばれ、場合によっては死ぬ時も鎖を付けたままでした。従って、これらの土まんじゅうからは人骨と同時に鎖が出土するというのがその名の由来です。北見市端野町緋牛内の、囚人道路が国道39号に出る手前に三基が残っているとのこと。これはいつの日にか是非訪れたいものです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-02-25 06:30 | 北海道 | Comments(0)
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