マーラー交響曲第二番「復活」

c0051620_6244418.jpg コンサート会場の入口で配られる演奏会のチラシをまとめて入れたビニールは、コンドームと同じ素材で作られているそうです。なるほど道理でこすれた時に音が出ないはずだ。閑話休題。あるコンサートでもらったチラシの中に、「山田和樹 マーラー・ツィクルス」という一枚がありました。なになに、山田和樹という若い指揮者が、日本フィルハーモニーとともに三年をかけてマーラーの交響曲九作を年代順に振るとのことです。しかも大作、交響曲第2番「復活」の演奏が間近に迫っています。これまでも第1番第3番第8番を聴きましたが、生で聴くマーラーはかけがえのない体験でした。ようがす、聴きに行きましょう。
 山ノ神の了解を得たうえで、インターネットでチケットを二枚購入。如月の好日、渋谷にあるBunkamuraのオーチャードホールへと向かいました。地下道を歩いて「109」とか言うビルに入ると…いやはや、おじさんは(おばさんも)参った。ファッションや小物を売る店で汗牛充棟、お花畑のような雰囲気の中を、さまざまな服で身を包み、化粧・染色した髪の若い女性たちが蝶のように舞っています。"もしそういう人たちが髪の毛の色にはらう関心のたとえ半分でも頭を働かせるほうにふり向けたならば、今の千倍も生活が向上するだろうに"、マルコムXの言です。(『マルコムX自伝』 中公文庫 上p.115) まあこれは良いとして、耐えきれなかったのが音響です。それぞれのお店が好き勝手に垂れ流すポップスが混然となって空気を鳴動させ、神経がおかしくなりそうでした。しかし店員さんもお客さんも平気の平左、老婆心ながら難聴ではないのかと心配してしまいます。ほうほうのていで脱出し、一路オーチャードホールを目指しました。
 三階の席に座って見下ろすと、ほぼ満員でした。なおこのツィクルスでは、山田和樹氏の強い希望によりすべて武満徹の曲と組み合わされています。本日は『混声合唱のための「うた」より』という無伴奏の合唱曲で、山田茂指揮による東京混声合唱団による演奏です。プログラムを見ると曲目は「小さな部屋で」「○と△の歌」「恋のかくれんぼ」「死んだ男の残したものは」「小さな空」。愛聴している『武満徹SONGS 見えないこども』(保多由子)と『武満徹POP SONGS 翼』(石川セリ)でお馴染の曲ばかりです。これは嬉しい。舞台に登場した合唱団はパート別ではなく男女おりまぜるように並んでいましたが、おそらく歌声を融け合わせるためでしょう。音程に自信がなければできないことです。そして次々と歌い紡がれていく武満徹の世界にすっかり魅せられました。ひとつひとつの言葉の響きを大切にしながら、素晴らしいハーモニーをつくりだす合唱団の力量にも脱帽です。私がとくに感銘を受けたのは「死んだ男の残したものは」と「小さな空」。前者は1965年4月22日に全電通会館ホールで行われた「ベトナムの平和を願う市民の集会」で歌うために急いで作曲されたそうですが、谷川俊太郎の詞が素晴らしい。安倍伍長が舌舐めずりをしながら戦争へと突っ走りつつある昨今、ぜひとも歌い継いでいきたい歌です。
死んだ男の残したものは/ひとりの妻とひとりの子ども/他には何も残さなかった/墓石ひとつ残さなかった

死んだ女の残したものは/しおれた花とひとりの子ども/他には何も残さなかった/着もの一枚残さなかった

死んだ子どもの残したものは/ねじれた脚と乾いた涙/他にも何も残さなかった/思い出ひとつ残さなかった

死んだ兵士の残したものは/こわれた銃とゆがんだ地球/他には何も残せなかった/平和ひとつ残せなかった

死んだかれらの残したものは/生きてるわたし生きてるあなた/他には誰も残っていない/他には誰も残っていない

死んだ歴史の残したものは/輝く今日とまた来る明日/他には何も残っていない/他には何も残っていない
 そして「小さな空」。明るさと切なさ・哀しさが響き合う、私の大好きな曲です。以前に「武満徹 その音楽地図」(小沼純一 PHP新書339)の書評で紹介したのですが、著者である小沼氏が児童自立支援施設で音楽を教えている友人からメールを受け取ったそうです。虐待されて心が傷つき、いつもは言うことをきかない子どもたちが、彼女の歌うこの歌には涙を浮かべながらしんとして聴き入ったそうです。以下、引用します。
 子どもにとって「どんな親」でも、「自分にとって愛情を示してくれた一瞬」があり、後生大事にその一瞬だけを「記憶」としてたずさえている子が多いです。武満さんの「小さな空」には、そういう「一瞬の幸福」(小沼さん、わかりますか? 彼らは、生きてきた人生の95%以上が、地獄だった子が多い。虐待に虐待を重ねる親でも運動会の時、最初で最後、子どもに弁当を作ったとか、そういうこと)を大事にする心がある、ともいえるでしょう。だから涙が溢れるんですね。
 音楽のもつ不思議な力ですね。なお最近、「二分の一成人式」とやらが小学校で流行しているそうですが、こうした子どもたちも親への感謝の言葉を言わせられるのでしょうか。

 あまりに素晴らしい合唱でしたので話が長くなりました。ここで二十分間の休憩が入ります。この時間を利用して、名著『マーラーの交響曲』(金聖響+玉木正之 講談社現代新書2132)を参考にしてこの曲の紹介をしましょう。ベートーヴェンの交響曲第9番を上回る曲をつくろうと強く意識したマーラーは、独唱と合唱を加えたこの大曲を七年かけて完成させました。中でも壮大なフィナーレをどうつくりあげるかには頭を悩ませましたが、そのきっかけが与えられたのがハンス・フォン・ビューローの葬儀でした。18世紀ドイツの詩人フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトックの『復活の頌歌』がオルガン伴奏による合唱で演奏され、「汝、よみがえらん」という合唱が耳に響いた時に、その全貌が明確な姿をとって彼の魂の前に立ち現れたそうです。1895年12月13日の初演は大成功に終わり、当時19歳だった弟子のブルーノ・ワルターはこう書き残しています。
 実際この演奏会の圧倒的印象は、私の回想の中で、最もすばらしいもののひとつなのである。私は、終楽章の偉大なるラッパで世の終わりを告げた後に、復活の神秘的な鳥の歌を聴いた時の息もつけぬような緊張味、それに続く合唱「よみがえらん汝は」も導入される部分における深い感激を今でもはっきり耳にすることができる。もちろんそこには、反対者があり、誤解があり、軽蔑があり、冷笑があった。しかしその作品の壮大なこと、独創的なこと、かれの個性の強力なことの印象の方が余りにも深く大きかったので、その日から、マーラーは、作曲家として、最高の地位をもって迎えられるようになったのであった。
 さあいよいよ開演です。オーケストラと合唱団が登場し、ステージを埋めつくしていきます。その数の多さを見ているだけでわくわくしてきました。そして指揮者の山田和樹氏が颯爽と登場。決然とふりおろしたタクトと共にヴァイオリンとヴィオラが嵐のようなトレモロを刻んだかと思うとディミヌエンド、すぐさまチェロとコントラバスがfffで咆哮します。もうこれだけで身も心も惹きこまれてしまいました。マーラー自身が、第一楽章を「英雄の葬儀」、第二楽章を「過去の回想」、第三楽章を「夢からの目覚めと人生の現実」、第四楽章を「純粋な信仰」、そして第五楽章を「最後の審判と神の栄光」と解説していますが、あまりそうした意味にはとらわれることはないでしょう。ただひたぶるに耳を傾け、音楽に身を委ねるのみ。
 魅力的なメロディ、さまざまな曲想、圧倒的なダイナミクスの幅、効果的なバンダ、壮大なフィナーレ、この難曲を十全に表現した山田氏の指揮に頭を垂れましょう。そして彼とともに素晴らしい音楽を紡いでくれた日フィル、東京混声合唱団、武蔵野合唱団、林正子氏、清水華澄氏にも。フィナーレで合唱が静かに"Aufersteh'n"と歌い出すと、「ああ嫌だな、もう終わってしまうのか」と思いました。

 一週間後に演奏される第三番も聴こうと思いましたが、遅かりし由良之助、もうチケットは完売でした。よろしい、来年の一月~二月に演奏される「第2期 深化」、交響曲第4・5・6番は女房をし…もとい、万難を排しても聴きに行くつもりです。
by sabasaba13 | 2015-03-03 06:25 | 音楽 | Comments(0)
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