植治の庭編(5):南禅寺界隈(13.11)

 この山県の要望に応えたのでしょう。疎水関係者は、起工時の内務卿であり竣工時の首相であった山県への謝意を表するために、疎水の水を贈りました。さすがに池の水とは公言できなかったので、「防火用水」という名目ですが。さて、無鄰庵の工事中、山県有朋は日清戦争のため中国東北部へ出征していました。留守中、彼の命を受けて工事を督励したのは、久原庄三郎。房之助の父、藤田伝三郎の弟、久原財閥の基礎をつくった政商です。彼が、白川のほとりの七宝細工師たちの庭をつくっている庭師の話を聞き付け、そこに無鄰庵修築の話をもちこんだのではないか、というのが鈴木氏の推測です。
 そして山県有朋の強い影響を受け、その庇護のもとに、植治は次々と新しいタイプの庭をつくっていくのですが、その特徴は何か。一言でいえば、茶庭や禅寺といった象徴主義的庭園から、自然主義的庭園への移行です。必要以上の象徴もなければ、見立ても名所の写しもない。あるがままを基本として、自然の水の流れ、喬木の梢のそよぎなどを庭に取り込んだのです。無鄰庵庭園の出来が素晴らしかったことにあって、権力者や財界人はこうした自然主義的な庭を求めて植治に作庭を依頼するようになりました。その背景について著者は次のように分析されています。権力者や財界人に明治期の新興勢力は、国家としての日本を最大限近代化しようと努力しました。しかし近代化を主体的に推し進めれば推し進めるほど、アイデンティティが揺らいできます。その不安を跳ねのけて、安心と誇りと慰めを得るためのものとして、彼らは書画骨董、造園造庭あるいは茶事を趣味としました。なかでも庭園は、最も心安らぐ場を与えてくれるものでしたし、それを構えるには莫大な財産が必要であったため、彼らを力づけてくれる大いなる魔力をもっていました。その際に、教養の無さもあってか、禅宗寺院の庭園に付きまとっている象徴的意味の体系は彼らには重すぎました。彼らはあくまでも自己流に、自己の審美眼を基調にし、自然の構成を善しとした自然主義的な庭園をつくることになります。また自然のなかで貧しい少年時代を送った彼らは、財力を誇示できるようになってから築いた大きな庭のうちに、自分たちの原風景を再現しようとしたのかもしれません。いずれにせよ、小川治兵衛のつくる自然主義的な庭園に彼らは心惹かれ、ここ南禅寺界隈には、琵琶湖疎水の水を利用した別荘群が数多く建てられました。後学のために紹介しておきましょう。
碧雲荘、何有荘、對龍山荘、流響院(旧織寶苑)、清流亭、有芳園、真々庵(かつて松下幸之助が所有)、無鄰庵(旧山縣有朋別邸)、清風荘(旧西園寺公望邸)、智水庵、怡園(旧細川家別邸)、旧上田秋成邸(現)、洛翠、旧寺村助右衛門邸(現 京料理「菊水」)
 管見の限りですが、このうち見学できるのは無鄰庵と旧上田秋成邸と旧寺村助右衛門邸だけのようです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-05-25 06:25 | 京都 | Comments(0)
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