『自動車の社会的費用』

 『自動車の社会的費用』(宇沢弘文 岩波新書)読了。
 自動車が大嫌いです。ほんとうに、心底、蛇蠍の如く嫌いです。化石燃料を貪欲に喰らい、有害物質を吐き出し、騒音で静かな環境を破壊し、人様を死や怪我へと追いやる悪魔の機械。もちろんその必要性は十二分にわかってはいますが、"必要悪"という視点からもっとその利用を抑制すべきではないかと考えています。たとえばイヴァン・イリイチは『シャドウ・ワーク』(岩波現代文庫)の中でこう言っています。
 都市の自転車交通は、徒歩の四分の一のエネルギー消費で、四倍の速さの移動を可能にする。ところが、自動車は同じだけ進むために、一人一マイルにつき百五十倍の熱量を必要とする。(p.141)
 またC.ダグラス・ラミスは『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(平凡社ライブラリー)の中でこう言っています。
 おそらく、それぞれの読者が減らすべき機械の優先順位リストを作れると思いますが、私自身のリストの第一位は(武器や原発、その他明らかに有害なものは別にして)車です。これまでは、車の数を増やすということが経済発展の一つの象徴でした。車を減らすことは「対抗発展」の一つの象徴になるかもしれません。車自体と車を走らせるための道路工事は大変な環境破壊になっているし、車は街の雰囲気を壊すし、社会のなかのストレスとイライラの大きな原因の一つだし、自動車組立工場のラインで働くのはとても楽しい仕事とは思えません。そして車は交通事故の名で大虐殺と言っていいほどの規模で人殺しを続けています。もちろん、今の社会には車がないと仕事ができない人もたくさんいて、すぐにできることではありませんが、車のない社会(たとえばベネチアのように)を一つの将来の目標としてたてることができます。(p.157~8)
 できるだけ多くの人を説得して、車のない社会に一歩でも近づけるよう日々理論武装をしております。本書は高名な経済学者である宇沢弘文氏が、経済学の観点から自動車がいかに社会に様々な損失をもたらしているかを剔抉したものです。思わず快哉を叫びたくなるような痛快な記述、論理的に深く納得できる指摘に満ち溢れた素晴らしい本、お薦めです。例えば、私も常日頃、不愉快に思っていた歩道橋について、宇沢氏はこう一刀両断されています。
 そして、いたるところに横断歩道橋と称するものが設置されていて、高い、急な階段を上り下りしなければ横断できないようになっている。この横断歩道橋ほど日本の社会の貧困、俗悪さ、非人間性を象徴したものはないであろう。自動車を効率的に通行させるということを主な目的として街路の設計がおこなわれ、歩行者が自由に安全に歩くことができるということはまったく無視されている。あの長い、急な階段を老人、幼児、身体障害者がどのようにして上り下りできるのであろうか。横断歩道橋の設計者たちは老人、幼児は道を歩く必要はないという想定のもとにこのような設計をしたのであろうか。わたくしは、横断歩道橋を渡るたびに、その設計者の非人間性と俗悪さをおもい、このような人々が日本の道路の設計をし、管理をしていることをおもい、一種の恐怖感すらもつのである。(p.62)
 また歩道と車道が分離されていない街路を、クラクションを鳴らし排気ガスを撒き散らし騒音をたてながら自動車が疾走する異常さ。住民はたえず前後に目を配りながら街路の端を歩き、子どもたちは道で遊ぶことなどできません。
 アメリカにせよ、ヨーロッパにせよ、およそ文明国といわれる国々で、歩道と車道とが分離されていない街路に自動車が無制限に通行を許されていることは、まず想像できない…
 この点にかんして、わたくしがいつも疑問におもうことがある。それは、自動車が一台通ると、人間の歩く余地がなくなってしまうような街路を、どのような意味で自動車が通る権利があるのだろうかという疑問である。たしかに法律的に言うならば、自動車の通行を法的あるいは行政的な手段で禁止していないかぎり、自動車通行が違法とはならない。しかし、警笛を鳴らすことによって歩行者を押しやって、排気ガスを吹きつけて疾走するということが、はたして許されてよいことなのであろか。(p.64~5)

 このような道路で、歩行者に危害を加える危険性が非常に高いことを知りながら、自動車運転をおこなおうとするのは、どのような倫理感をもって人々なのであろうか。(p.71)
 この炯眼には頭を垂れましょう。私も歩道橋を見て不快だなとは思っていましたが、これが日本社会の貧困、俗悪さ、非人間性を象徴するものだということまでは考えがいたりませんでした。そりゃそうですよね、老人、幼児、ハンディキャップをもつ方々よりも、自動車を優遇しているわけですから。また歩道のない街路を自動車が疾走することの異常さについては、まったく想いもいたりませんでした。幼い頃から親に「車に気をつけなさい」と注意され続け、またそうした光景を日常的に見ているため、事故は歩行者の注意不足によるものと思い込んでしまったのですね。違いました。私たちは、「各人が安全に、自由に歩くことができる」権利を自動車によって侵害されているのでした。
 本来、こうした人権侵害や被害を軽減するためには自動車の所有者・運転者が代価を負担すべきなのですが、それが僅かでしかない。自動車を利用すればするほど利益を得るので、ますます需要が増大します。その結果道路が混雑してくると、道路を建設することによってそれを解消しようとする。ますます自動車通行が便利なものとなり、自動車の保有台数がさらに増え、また混雑が激しくなる。この悪循環のプロセスを通じて、交通事故は増え、環境は悪化し、住民の受ける被害も加速度的に大きくなってくる。やれやれ。
 この悪循環を断ち切るために、宇沢氏は自動車通行によって発生する社会的費用を、自動車を利用する人々が負担すべきだと主張されています。"社会的費用"とは、ある経済活動が社会に被害を与えるとき(=外部不経済の発生)、その悪影響のうち発生者が負担していない部分を集計した額のことです。簡単に言えば、「落とし前をつけてもらおう」ということですね。その詳細についてはぜひ本書を読んでいただきたいのですが、市民の基本的権利を侵害しない道路について、氏はこう述べられています。
 まず、歩道と車道とが完全に分離され、しかも並木その他の手段によって、排気ガス、騒音などが歩行者に直接に被害を与えないように配慮される必要がある。また、歩行者の横断のためには、現在日本の都市で作られているような歩道橋ではなく、むしろ車道を低くするなりして、歩行者に過度の負担をかけないような構造とし、さらに、センターゾーンを作ったりして、交通事故発生の確率をできるだけ低くする配慮をすることが要請される。と同時に、住宅など街路に沿った建物との間にもまた十分な間隔をもうけ、住宅環境を破壊しないような措置を講じなければならない。(p.161)
 いったいどれくらいの費用がかかるのだろう…と腰が引けたら、もう"自動車を優遇すべき"という呪術にからめとられている証拠ですね。(私もそうですが) その費用は、自動車の所有者・運転者に払っていただきましょう。エコカー減税などという世迷い言を言っている場合ではなく、エコカー増税と非エコカー大増税。人権を蔑ろにした経済成長路線から、いいかげんに脱却すべきだと思います。財界、および自動車産業から「冗談じゃない」という大きなブーイングが発せられるでしょうが、それを抑え込む、高い見識と志をもつ政党を応援したいものです。

 なお最近読み終えた『税金を払わない巨大企業』(富岡幸雄 文春新書)によると、実効税負担率の低い大企業の第15位に富士重工業、第18位に日産自動車、第25位に本田技研工業、第30位にトヨタ自動車、第32位にスズキがランクされています。なんなんだ、これは。
by sabasaba13 | 2015-06-04 06:29 | | Comments(0)
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