「ベルツの日記」

 中国に「三上」という言葉があるそうです。(寺田寅彦随筆集第二巻「路傍の草」岩波文庫) 枕上(ちんじょう)・鞍上(あんじょう)・厠上(しじょう)で、最も気持ちのいい場所、あるいはいい考えを発酵させるのに適した三つの環境のことです。そういえば、私はこの三つの環境で読む本をそれぞれ分化させています。枕上では、やや歯ごたえと手ごたえがある本とお気楽に読める本。眠くなったら後者の本にすみやかに移行します。今は「単一民族神話の起源」を読んでおります。その後はマンガか旅行のガイドブックかな。鞍上、現代では電車でしょうね、ここでは持ち運びに便利な文庫・新書で、ぶつ切りになってもよろしい短編小説か随筆集を読みます。今は「仰臥漫録」を読んでおります。そして厠上。条件としては、手をつらないようコンパクトな文庫・新書で、家人に迷惑をかけないようきわめて短い文章で完結するもの。以前、ラエルティオスの「ギリシア哲学者列伝」を試してみましたが、文章と哲学者の紹介部分がくどくてだめ。そこで気づいたのが日記です。これはいいですよ、短くて適度に面白い。というわけで「劉生日記」(岩波文庫)を読み終え、「ベルツの日記(上下)」(岩波文庫)も読了しました。
 エルウィン・ベルツ(1849~1913)、ドイツ人医師。1872年ライプチヒで医師となる。76年東京医学校(大学東校)の教師として来日、以後東大教授を1902年まで勤め、近代日本の医学・医療を基礎付けた。寄生虫研究や日本人の人類学的研究に従事。05年帰国。(岩波日本史辞典) 憲法制定、議会開設、日清・日露戦争という激動の時期に「お雇い外国人」として医学を指導し、こうした事件の印象を書きとどめたのがこの日記です。
 東京全市は、十一日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。至るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容をご存じないのだ。
 という記述は有名ですね。また皇室や政府高官との交友関係もあり、彼でなければ知りえない、そして日本人だったら記録に残すのがはばかられるようなエピソードも多々あります。例えば…
 伊藤(博文)のいわく、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである。
 また日露戦争における陸海軍の対立を知り、日本の将来に影響を及ぼすと懸念したり、戦時における日本人の自制心に感嘆したり、白根山爆発の際にある老婆がとった冷静な行動に感服したり、草津温泉をカルルスバードのようにするぞと息巻いたり、兵士の脚気を気にかけたりと、彼の視線はさまざまな所に及んでいます。当時国際的孤立を深めていた祖国ドイツと、その原因をつくったヴィルヘルム2世に対する辛辣な批判はたびたび言及されており、印象的です。
 こんな過失の由って来るところは、われわれの各個人にあるのではなく、むしろわれわれを政治的に無教育にし、外国に対して誤った態度をとらしめる制度全般にあることを、いよいよ悟る次第だ。
 その通りです、Herr Baelz。実は、お恥ずかしい話ですが、われわれはいまだ悟っていないのです!
by sabasaba13 | 2005-08-04 07:59 | | Comments(0)
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